「助かる命を増やす」
震災の伝承活動に取り組む公益社団法人で最年少メンバーとして活動している、若生遥斗さん(22)。
小学2年生だった当時、七ヶ浜町の汐見小学校で大きな揺れに襲われ、避難した高台の神社から町を襲う津波を目にしました。
家族や住宅に被害はありませんでしたが、震災で家族を失って心に深い傷を負った同級生などと接するなかで、「助かる命を増やすには、1人でも多くの人に防災の知識を伝えていかなければ」と考え、高校1年生の時から伝承活動を行ってきました。
高校卒業後は貿易関連の会社に就職しましたが、休日などを利用して活動を続けてきました。
去年10月、若生さんは「伝承活動に専念したい」との思いから4年間勤めた会社を辞め、今の公益社団法人に転職しました。
11日、若生さんが活動している石巻市の伝承交流施設「MEET門脇」には、県内外から多くの来館者が訪れました。
若生さん「今、思い出すと、津波を怖いと感じませんでした。何が起きてるんだろうと。怖さを知らないことが一番怖いことです」
話を聞いた埼玉県の20代の女性「震災は絶対に忘れてはいけないことだと痛感しました。私と1歳しか変わらないのに、自分で考えて未来につなげる仕事ができているのは、すごいなと思います」
若生さん「この団体に入ってから、伝えることの重要性をより感じているので、訪れた人たちが防災について学ぶきっかけを作れたらと思います」
「みんな元気でやっているよ」
仙台市若林区にある「浄土寺」は津波で本堂が流され、寺の檀家や信徒あわせて135人が犠牲になりました。
2017年に内陸に場所を移して新たな本堂を建てましたが、墓地はもとの場所で再建していて、朝から遺族などが墓参りに訪れていました。
当時73歳の姉が犠牲になった多賀城市の80代の女性「コーヒーが好きだったので、お菓子を供えました。心の中で近況報告をして、『みんな元気でやってるよ』『見守ってね』といろいろとお話ししました。姉はもう帰ってこないので、残りの人生は姉に教えられたことを胸に、自分たちの人生を生きていきたいと思っています」
教員時代の教え子が6歳の娘を亡くし、毎年訪れているという柴田町の70代の男性「私にできることは手を合わせることしかないので、1年に1回でもここで手を合わせることを続けたいです」
「南海トラフ地震などに備えてほしい」
津波などで14人が亡くなり、2人が行方不明となった千葉県旭市。
飯岡地区に住む嶋田洋さんは(77)、自宅で津波に襲われ2階に逃れて助かりましたが、近くに住むいとこの小池正彦さんを津波で亡くしました。
嶋田さんは、今も毎月、小池さんの墓参りをしていて、11日も墓を訪れ、線香を手向け静かに手を合わせていました。
嶋田さん「何でも話せる兄のような存在でした。14年はあっという間で、日々、1日を大事に過ごしています。震災を教訓に家族で避難場所を決め、いざというときはいち早く自分で逃げるよう、話をしています。みんなも震災を忘れず、南海トラフ地震などに備えてほしいです」
「命を守れるよう、備えていく」
福島県相馬市の磯部地区では震災で251人が犠牲になり、このうち12人は小学生や幼稚園児でした。
地区の高台にある小学校には、亡くなった子どもたちの慰霊碑が設けられていて、11日、全校児童15人が参加して追悼の集いが行われました。
在校生代表5年生の菊地夏々美さん「つらく悲しい出来事を二度と繰り返さないため、自分や大切な人の命を守れるよう、備えていきます。震災で亡くなった人の分まで、一生懸命頑張る私たちをこれからも見守って下さい」
3年生の児童「犠牲になった人たちは、津波が起きていなかったら、きっと周りの人と仲良くして楽しかっただろうと思います。震災のことを語り継がなくてはいけないと思います」
「1人でも多く戻って来てほしい」
東京電力福島第一原子力発電所が立地する福島県大熊町。原発事故後、すべての住民が避難を余儀なくされ、除染などが進められた結果、2019年4月、住民の帰還が始まりました。しかし町に住む人はかつての1割程度にとどまっています。
佐藤右吉さん(86)は、避難先の会津若松市から大川原地区の自宅に戻ってまもなく6年となり、妻と2人で暮らしています。しかし近隣の住民は今もなお戻っておらず、かつての日常は取り戻せていないと感じています。
佐藤さん「避難した人には1人でも多く戻って来てほしい。住民が少なく、さみしく感じます」
佐藤さんの今の楽しみは菊やバラの花を育てることで、11日も朝日を浴びながら、花壇の土を耕していました。
佐藤さん「まちの人が花を見に来てくれることが何よりうれしい。これからも花で皆さんを喜ばせて、まちがもとの姿に戻ってほしい」
「移転するか、葛藤もあった」
津波で37人が犠牲になった岩手県野田村。地震の後に建設された海に面した公園を散歩していた大沢剛さんは、津波で自宅が流されたということです。
自宅の再建にあたり、高台への移転も検討しましたが、元の場所への愛着もあって、同じ場所に建てたということです。
大沢さん「移転するか、元の場所にとどまるか葛藤もあった。14年前、震災が起きた年に生まれた自分の子どもは、震災前の村の町並みを知りませんが、新しい村を引っ張っていく人材に育ってほしい」
「14年前の自分に会いに行く日」
大槌町出身で東京を中心に活動しているトランペット奏者、臺隆裕さんです。
臺さんは14年前、吹奏楽部に所属していた高校1年生の時に震災を経験し、変わり果てたふるさとを前にして、音楽を続けることを諦めかけました。
しかし、避難所などで演奏を続ける中、自分の音楽で喜んでくれる地元に人たちの姿を見て、トランペット奏者を目指して上京しました。
その後、関東を中心に12年間プロで活動を続け、震災14年を前に、活動拠点を大槌町に移しました。
臺さんは大槌町の海を前に自分で作曲した2曲と「ふるさと」を演奏し、もう一度ふるさとで生きていく決意を新たにしていました。
臺さん「きょうは14年前の自分に会いに行く日でもあり、あの時に亡くなった人たちに会いに行く日、そして、未来への希望を考える日です。ふるさとを思ってきた14年でした。残りの生きている時間でこの町の希望につながることをやっていきたいです」
「伝承していかなければ」
民泊を営む陸前高田市気仙町の及川和雄さん(75)は、宿泊している大学生4人を連れて東日本大震災の犠牲者を追悼する公園を訪れました。
及川さんは14年前の11日、当時一緒に暮らしていた父親の周太郎さんを津波で亡くしました
及川さん「父親が津波で流された当時のことを思い出しました。あの時はこうだったなと振り返って伝承していかなければと思いながら海を見ていました」
一緒に訪れた神奈川県の大学生、磯邉 諒さん(19)「当時は5歳くらいで、物心もついていないころでした。被害状況や被害にあった人の心境などを知らずに今まできましたが、実際に震災で何人もの人が犠牲になったと改めて実感しました」
「短いような長いような14年」
仙台市若林区の荒浜地区で生まれ育った大学敏彦さん(70)です。
震災発生の当日、仕事で自宅を離れていて無事でしたが、津波で自宅と実家を流され妻と両親、兄とおい、あわせて5人を亡くしました。
妻の眞知子さんは(当時60)いつも笑顔で、けんかすることはほとんどなく大学さんに寄り添ってくれたといいます。
大学さんは、この14年の間、毎月11日の月命日には欠かさずここで祈りをささげてきました。
大学さんは、水平線からのぼった真っ赤な朝日を見つめたあと、家族の名前が刻まれた慰霊碑に線香を手向け亡くなった妻を思い手を合わせ、慰霊の鐘を鳴らしました。
大学さん「14年は短いような長いような時間でした。妻と子どもや孫の成長を一緒に見たかったけど、自分が供養できるうちは供養してあげたいので、見守っていてほしい」