“ミスタープロ野球”を悼む声が相次いでいます。
王貞治さん「一緒に野球ができたことを本当に感謝」
長嶋さんとの『ONコンビ』で、V9時代の巨人の中心となりプロ野球の一時代を築いたソフトバンクの王貞治球団会長は「突然の訃報に大変驚いております。日本球史に燦然と輝く長嶋さんが闘病生活の末、旅立たれてしまったことを本当に残念に思います。長嶋さんには色々と教えていただきました。一緒に野球ができたことを本当に感謝しています。今は只々心よりご冥福をお祈りします」と球団を通してコメントしました。
ドジャース 大谷翔平「心よりご冥福をお祈りいたします」
長嶋さんが亡くなったことを受けて、大リーグ、ドジャースの大谷翔平選手が自身のインスタグラムを更新しことし3月に東京ドームで撮影した長嶋さんと2人で撮った写真を投稿し、「心よりご冥福をお祈りいたします」とつづりました。
原辰徳さん「私にとって憧れで野球というスポーツの象徴」
長嶋さんのもとで選手としてプレーしたほか、長嶋さんの後を受けて巨人の監督を務めた原辰徳さんは訃報を受けて「勝負に厳しく、人に優しく、誰からも愛される方でした。私にとって、長嶋さんは憧れで野球というスポーツの象徴でもあり、神様のような存在でした。私の中で長嶋さんはいつもさん然と輝き、選手、コーチ、監督、全ての立場で最も影響を受けました。残念ですが現実を受け止めるしかありません。ご冥福をお祈りいたします」と球団を通してコメントしました。
巨人 阿部監督「私たちにできるのは勝利を届けることだけ」
長嶋さんが亡くなったことを受けて、巨人の阿部慎之助監督は「突然の訃報に驚くばかりです。入団時から私を導き、育てていただきました。監督になってからも温かく、厳しく、支えていただきました。私たちにできるのは勝利を届けることだけです。心よりご冥福をお祈りいたします」と球団を通じてコメントしています。
張本勲さん「私にとっては大切な存在」
長嶋さんが巨人で1期目の監督を務めた際に選手としてプレーし、プロ野球で歴代最多の3085本のヒットを打った張本勲さんは、「突然の訃報に驚きました。残念で仕方ありません。ミスターには現役時代大変お世話になりました。私にとっては大切な存在でした。心からお悔やみ申し上げます」というコメントを出しました。
高田繁さん「常にファンがどうすれば喜ぶかを考えていた人」
長嶋さんとともに巨人のV9に貢献し、長嶋さんが1期目の監督を務めた際にも選手としてプレーした高田繁さんは、NHKの取材に対し、「テレビのニュースで知ったが突然だったので驚いた。去年11月の巨人のイベントでOBが集まって一緒に記念写真を撮ったのが最後だった。本当に常にファンがどうすれば喜ぶかを考えていた人で、空振りひとつにしても、ゴロを取って投げるときもそうだが、走る姿もダイナミックだった。ここで打ってくれというときには期待を裏切ったことがないような人だった」と話していました。
福本豊さん「野球の神様みたいな人」
阪急の選手として長嶋さんと日本シリーズで何度も対戦した福本豊さんは、「亡くなったと聞いて驚いた。長年、日本の野球界をリードし続けてくれて、感謝しかない」と、話していました。そして、長嶋さんの現役時代について「自分がセンターを守っていてもどこに打つのか読めない選手だった。データがそろっていても結局、投手のボールに反応して打ててしまう人だから、予想通りにならない。何度も痛い目にあわされた」と話しました。
また、1976年と1977年に長嶋さんが監督を務めていた巨人を相手に日本シリーズを戦ったことを振り返り、「『よし、ミスターにいいところを見せてやろう』と思いながら、プレーしていたのを覚えている。いまの選手みたいに、大先輩へ話しかけることはできない時代だったので、結果で示そうとしていた。対戦相手の監督なのに、そんな風に思わされる。野球の神様みたいな人だった」と話していました。
江夏豊さん「一緒に野球をやってこられたことは名誉」
巨人のライバル球団、阪神のピッチャーとして長嶋茂雄さんと何度も対戦してきた江夏豊さんはNHKの取材に対し、「寂しいのひと言だ。長嶋さんは野球人として最高の人で、一緒に野球をやってこられたことは名誉に値する。ご冥福をお祈りします」と話していました。
篠塚和典さん「一緒のユニフォームを着て野球をしたことが幸せ」
長嶋茂雄さんが監督を務めていた1976年に巨人に入団し、2回の首位打者を獲得するなど活躍した篠塚和典さんがNHKの取材に応じ「残念だ。覚悟はしていたが何のことばもでない。野球に携われてきたのも長嶋さんが拾ってくれたからで、“東京のお父さん”という存在だ。周りが反対する中で、長嶋さんが『責任を持つ』と私を獲得してくれて、なんとか恩返しをしなければならないという気持ちだった。同じ千葉県出身で憧れていたし、一緒に同じユニフォームを着てプレーできたことは幸せなことだった」と振り返りました。
篠塚さんは長嶋さんの指導を受けて球界屈指の内野手に成長しましたが、現役時代の思い出については「レギュラーでないときに、『必ずチャンスが来るからそれに備えておけ』とことばをもらっていた。最初に首位打者を取れたときに長嶋さんにやっと恩返しができたと思った。長嶋さんのファンを大事にする姿勢は自分の中でも胸に刻んでやっていた」と話していました。
宮本慎也さん「キャプテン任命は私の財産」
元ヤクルトの宮本慎也さんは、「長嶋監督とはアテネオリンピックで同じチームで戦わせていただきました。ご病気で倒れ、本戦では一緒に戦うことはできませんでしたが、私を日本のキャプテンに任命していただきました。当時はプレッシャーで喜べるものではありませんでしたが、今では私の財産としてしっかり残っています。ご冥福をお祈りします」とコメントしました。
長嶋さんはアテネオリンピックを前にした2004年3月に脳こうそくで倒れ、大会では中畑清ヘッドコーチが指揮をとりました。宮本さんはその後、2008年の北京大会でも日本代表のキャプテンを務めました。
上原浩治さん「思い出すだけでこみ上げるものがある」
長嶋さんが亡くなったことを受けて、長嶋さんの監督時代だった1999年に巨人に入団し、主力投手として活躍した上原浩治さんは「突然の訃報に接し、ことばを失っています。ドラフト、プロ入り初年度、ジャイアンツ時代、そしてオリンピック。ひと言では語り尽くせないほど多くの思い出があり、思い出すだけでこみ上げるものがあります。東京ドームでお会いするたびに笑顔とお言葉に元気をいただいておりました。プロの世界に入ってからも数えきれないほどのご指導を賜り、心より感謝しております。長嶋監督のご冥福を心よりお祈り申し上げます」とコメントしています。
メッツ 千賀滉大「ことばが出ない」
大リーグ・メッツの千賀滉大投手はドジャース戦を前に報道陣の取材に応じ、「びっくりしている。『野球界と言えば』という、球界を引っ張ってきた方だと思う。面識はないが、今の僕らがあるのも、少なからず長嶋さんのようなレジェンドの世代の方たちが築いてくれたものだと思っている。ことばが出ない。ご冥福をお祈りします」と話していました。
巨人 山口オーナー「言葉が見つからない」
巨人の山口寿一オーナーは球団を通じて、「悲報に接し、言葉が見つかりません。子どものころ、ジャイアンツとは長嶋さんのチームでした。その思いは今も変わりません。『燃える男』の勝負強さと太陽のような明るさ。高度成長の時代を体現したスーパースターであり、野球界をけん引した『ミスタープロ野球』でした。病に倒れられたあとも野球への情熱は衰えることがなく、最後まで東京ドームに来て、監督、コーチ、選手を激励してくださいました。長嶋さんの志は後輩たちが確実に受け継いでいきます。心よりご冥福をお祈りいたします」とコメントを発表しています。
名球会「多大なる功績に深く感謝」
長嶋さんが亡くなったことを受けて、日本プロ野球名球会は「長嶋さんは、日本プロ野球界を象徴する存在として、常に人々の記憶に残る名勝負と感動を届けてくださいました。
1978年、通算2000安打以上の打者・200勝以上の投手を称えるべく発足した「名球会」の設立に尽力し、初代会員として、その後のプロ野球界の発展と後進育成、野球文化の継承に大きな役割を果たされました。現役引退後も、名球会を通じた野球教室やチャリティイベントに積極的に参加され、『野球を通じて人を育てる』という理念を体現されました。その姿は、子どもたちをはじめ、多くの野球ファンにとって希望であり、憧れであり続けました。名球会一同、長嶋茂雄さんの多大なる功績に深く感謝するとともに、心よりご冥福をお祈り申し上げます」とコメントを発表しました。
母校 立教大学総長「永久不滅のヒーロー」
長嶋さんが亡くなったことを受けて、長嶋さんの母校、立教大学の西原廉太総長がコメントを発表しました。この中で「驚きと深い悲しみに包まれております。長嶋茂雄さんは、立教大学野球部から東京六大学野球のスターとなり、読売巨人軍でのご活躍を経て、日本のプロ野球界の至宝として尊敬を集められました。戦争の焼け跡から高度経済成長を遂げた日本の発展を象徴するシンボル的存在であり、立教大学の池袋キャンパスには『長嶋茂雄氏顕彰モニュメント』を設置しています。長嶋茂雄さんは、立教大学にとって永久不滅のヒーローです」などとコメントしています。
大手警備会社 セコム「功績に深く感謝」
長年にわたって、長嶋茂雄さんをテレビのコマーシャルなどで起用してきた大手警備会社の「セコム」は、「長嶋茂雄さんには、ブランドアンバサダーとして1990年より35年にわたり多大なるご尽力をいただきました。長嶋さんのご功績に深く感謝するとともに、謹んでご冥福をお祈り申し上げます」とコメントしています。
菅元首相「まさに国民的スター」
2013年に政府が長嶋さんに国民栄誉賞を授与した当時、官房長官だった自民党の菅元総理大臣は記者団に対し「心よりご冥福をお祈り申し上げます。闘志あふれるプレーと驚異的な勝負強さ、愛される人柄は多くの国民の憧れの存在だった。国民に深い感動や明るい夢と希望を与えてくれたまさに国民的スターだった。官房長官のときに国民栄誉賞の表彰式に同席し、ひとりの長嶋茂雄ファンとしても大変うれしかった」と述べました。
その上で「中学3年のときに秋田から修学旅行で後楽園球場を訪れた際、長嶋選手が球場全体に手を振って、すごい歓声が上がったことは忘れられない記憶だ」と振り返っていました。
東京・有楽町では新聞の号外
東京・有楽町では、新聞の号外が配られ、通りかかった人たちが次々に受け取っていました。
70代の男性は、「大変びっくりしました。長嶋さんと言えば金田選手からの三振、天覧試合でのホームラン、王選手とのアベックホームランなど印象的なシーンが限りなくある。晩年、倒れてからも必死にバットを振ろうとリハビリしている姿に大変勇気をもらいました」と話していました。
30代の女性は「野球ファンだったので、子供のころは巨人の監督として活躍している長嶋さんの姿が大好きでした。プロ野球界にとってなくてはならない偉大な人だったと思います」と話していました。