事故現場に残されていたもの
1985年8月、日本航空のジャンボ機が群馬県の御巣鷹の尾根に墜落し、乗客乗員520人が犠牲になりました。
この事故で、鹿児島県姶良市の宇都政幸さん(90)と黒仁田幸子さん(76)は、きょうだいの川上和子さん(当時39)と、その家族を亡くしました。
川上さんの家族は、和子さんと夫の英治さん(当時41)、長女の慶子さん(当時12)、次女の咲子さん(当時7)の4人で搭乗し、慶子さんは奇跡的に助かりましたが、3人が亡くなりました。
川上さんの家族は事故の直前、和子さんと夫の英治さん、長女の慶子さん、次女の咲子さんの4人で北海道旅行に行きました。
店の前に置かれたベンチに並んで座る家族たち。和子さんに抱かれ、Vサインする咲子さん。
事故現場で発見されたカメラには、札幌や知床半島の観光地を回り、道東の硫黄山を訪れたときに写したとみられる写真が残っていました。
この旅行のあと、羽田空港から大阪に住む英治さんの親族の自宅に向かう途中に、事故に巻き込まれました。
事故が起きた8月12日は、次女の咲子さんの7歳の誕生日でした。親族が集まってみんなで一緒に祝おうと、大阪に向かっていたということです。
宇都政幸さん
「北海道旅行のために何年も前から積み立てていました。バスの中で歌を歌ったりして、旅行は本当に楽しかったようです」
黒仁田幸子さん
「事故の1年ほど前、今度、北海道旅行に行くんだって電話で話している時は、本当に楽しみにしている様子でした。(事故の一報を聞いたときは)うそうそって信じられなかったです。悲しみは、それはもうすごかったです。今でも涙が出ます」
走り書きの手紙に 後悔と涙を繰り返して
黒仁田さんは事故の前、姉の和子さんから送られてきた手紙をいまも大切に保管しています。
手紙は、結婚して島根県に移り住んだ和子さんから届いた梨やブドウ、おさがりの子ども服に添えられていたもので、和子さんたちの写真が入ったアルバムに挟んで大切に保管してきました。
それでも時間がたつにつれて文字が読めなくなってしまい、いまでは事故のおよそ2か月前に届いた手紙が1通、残されています。
手紙には和子さんの好物の「あくまき」を送ったことに対して、「懐かしくおいしく食べました。来年もよろしくね」と感謝のことばがつづられていました。
そして、手紙の最後には「夏休みに来ませんか?海がとてもきれいです。早めに知らせてください」と書かれていました。
黒仁田幸子さん
「島根は遠いし、子育てが忙しかったから、遊びに行こうという考えにはならなかったです。あの時、一度、島根に行けばよかったと後悔し、この手紙を何度も何度も読み返しては、また涙を出すんです。こんな走り書きなところが、飾りがない、思ったことを思ったまま書く和子姉ちゃんぽいです」
また、和子さんが鹿児島に帰省するときのうれしい気持ちがいまでも忘れられないといいます。
黒仁田幸子さん
「鹿児島空港に30分前には到着して、あと何便だ、あと何分だって待っていました。すごく楽しみで、何を食べさせてやろうかとかずっと考えていました。どこに行くにも姉の後ろについていました。姉は積極的で、どこにでも飛び込んでいく。よく一緒に山や川に遊びに行きました。一緒に過ごした時間が一番長かった姉です。最愛の姉でした」
“あくまき”をたずさえて
宇都さんと黒仁田さんの2人は、これまでも慰霊の登山を行ってきましたが、年齢を重ね、体力的に難しくなってきたため、ことしが最後の登山だと決めたということです。
宇都さんと黒仁田さんは、亡くなった3人の好物や思い出のものを準備しました。
宇都さんは6人きょうだいの長男で、下に5人の姉妹がいて、亡くなった和子さんが4女、黒仁田さんが末っ子の5女で、3歳違いの和子さんと黒仁田さんは特に仲がよかったといいます。
最後の登山を前に、2人は和子さんの大好物だった鹿児島県の郷土料理「あくまき」を準備しました。
「あくまき」は端午の節句などで食べられる、もち米を竹の皮に包んで煮た和菓子で、幼いころ和子さんは黒砂糖やきな粉をつけて食べ、当時は数少ないデザートとして毎年楽しみにしていたということです。
また、和子さんたちが育った鹿児島にある実家の庭の土、英治さんが好きだった缶ビール、甘いものが好きだった咲子さんのためにお菓子やジュースも準備しました。
宇都さんが育てた米も袋に入れて持って行くことにしました。
黒仁田幸子さん
「和子姉ちゃんは結婚して島根県に行ってからも、あくまきを食べたいから送ってほしいといつもお願いしてきていました。きっと喜んでくれると思います。最後だから寂しいんです、でも、お姉ちゃんに会いたい気持ちがあるから、楽しみでもあるんです。現地に行ったら、最後の最後の頼みは慶子ちゃんたちを見ていてね、何事もなく、穏やかに暮らしてほしいから、見守っていてねと言いたいです」
宇都政幸さん
「実家の庭の土を持っていこうと。和子や咲子ちゃんが遊んで、転んだりした土だから、山に持って行ってあげたらきっと懐かしんでくれるはずです。ふるさとの匂いを感じてくれたらいいです。それだけでも供養になると思います」
宇都さんは最後の登山のために、毎日、50回のスクワットをして体力作りに励んできたということで、「どうしても最後に現地で直接、供養してやりたかったんです。頂上まで登って、ゆっくり休んでくれと直接声をかけたいです」と話していました。
最後の慰霊登山へ
墜落事故から39年。
2人は午前9時半ごろからそれぞれの子どもを含めた4人で御巣鷹の尾根を目指し、およそ2時間かけて、3人の遺体が見つかった付近に建てられた墓碑に到着したということです。
墓碑では鹿児島県の郷土料理など、3人が好きだった食べ物や飲み物を供え、手を合わせました。そして、頂上を訪れ、遺族たちが設置した「安全の鐘」を鳴らし、昼すぎに下山しました。
宇都政幸さん
「安らかに、安らかに、と語りかけました。そして、もう来られないよと話しかけました。兄として、少しでも何か力になれたようでほっとしました」
黒仁田幸子さん
「墓碑をいっぱい触ってきました。もう来られないから、感謝の気持ちと今までありがとうねと伝えてきました。思い出をいっぱい作ってくれて本当にありがとうと話し、たくさん泣いてきました。寂しいです。後ろ髪を引かれる思いで何度も何度も振り返りました」