1999年9月30日、東海村にある核燃料加工会社「ジェー・シー・オー」で原料のウランを処理していた際に核分裂反応が連続する「臨界」が発生し、作業員2人が大量の放射線を浴びて亡くなったほか、周辺の住民など600人以上が被ばくしました。
また国内の原子力事故で初めて周辺の住民を避難させるなど、国の原子力防災体制が見直されるきっかけになりました。
事故から25年となる9月30日、東海村役場では幹部や若手の職員およそ100人が集まり、山田修村長が「臨界事故を決して忘れず、原子力安全を希求し続けてほしい」と訓示しました。
村内には多くの原子力施設が立地していますが、村では事故当時の職員が全体の23%まで減っています。
どのように経験を継承し、風化を食い止めるかが課題となっています。
山田村長は「原子力防災への対応は重要な責務の1つであり、全職員がしっかりとその責務を果たす覚悟を持ってほしい」と述べました。
事故当時を知る50歳の男性職員は「事故時の記憶はどんどん薄れてきているが、災害時に適切な判断ができるよう心がけている。若い職員にも教訓を伝えていきたい」と話していました。
ことし4月から役場で働く32歳の女性職員は「常に原子力防災を意識して業務にあたり、村民の生命や生活を守っていきたいと改めて思った」と話していました。
「ジェー・シー・オー」の臨界事故とは
25年前の1999年9月30日、茨城県東海村にある核燃料加工会社「ジェー・シー・オー」で起きた臨界事故は、当時、国内最悪の原子力事故と言われました。
当時、会社では、茨城県大洗町にある高速実験炉「常陽」の核燃料を製造するための作業が行われていましたが、作業を効率化しようと、核燃料の原料のウランと硝酸をバケツで混ぜ合わせるなど、違法な方法がとられていました。
その結果、午前10時35分ごろ、沈殿槽と呼ばれるタンクの中で核分裂反応が連続して起きる「臨界」が発生しました。
このとき現場にいた3人の作業員は放射線の一種の中性子線を大量に浴び、このうち最大20シーベルトの被ばくをした作業員は12月に、最大10シーベルトの被ばくをしたもう1人も翌年の4月に亡くなりました。
また、この臨界事故では、国内で初めて原子力事故に伴う避難と屋内退避が行われました。
臨界の終息が見通せない状況が続く中、事故発生から4時間半後の午後3時、東海村は現場から350メートル圏内の住民に避難を要請。
さらに、12時間後の午後10時半には、茨城県が10キロ圏内の住民に対して屋内退避を勧告しました。
臨界は20時間近くたった10月1日午前6時15分ごろに止まりましたが、会社の社員や専門家、自治体・消防などの職員、そして周辺で暮らす人などあわせて600人以上が被ばくする事態となりました。
原子力事故の深刻さを示す「INES」と呼ばれる国際的な評価基準では、0から7までの8段階のうち上から4番目の「レベル4」とされました。
国の原子力安全委員会は、「ジェー・シー・オー」が当時、国際的な価格競争によって業績が悪化し、人員削減といった経営効率化が行われていた様子がうかがえるとした上で、事故の背景にこうした経営効率化を契機とした社員や企業の倫理などの低下があったと推論し、危機認識が欠如・風化していたと指摘していました。
事故後も相次ぐ原子力の事故やトラブル
25年前の臨界事故のあとも、国内では原子力の事故やトラブルが起きています。
2011年3月、世界最悪レベルとなった東京電力福島第一原発の事故が起きました。
津波で電源を喪失した3基の原子炉が次々にメルトダウンを起こし、外部に大量の放射性物質が放出される事態になりました。
「INES」の評価では8段階のうち最も深刻な「レベル7」とされ、13年半がたった今も福島県内では事故による避難指示が出ている地域があります。
廃炉作業も多くの工程で延期を余儀なくされていて、最長40年で廃炉を終える計画は不透明さを増しています。
放射性物質を扱う研究施設や工場でも被ばく事故が相次ぎ、2013年5月には茨城県東海村にある素粒子実験施設「J-PARC」で実験中に装置が誤作動し、研究者など34人が被ばくしたほか、放射性物質が外部に漏れました。
また、2021年5月には兵庫県姫路市にある日本製鉄の工場で、男性社員2人がエックス線装置の点検中に誤って被ばくする事故が起き、広島大学の施設に入院して治療を受け、「INES」の評価では、臨界事故の「レベル4」に次ぐ、上から5番目の「レベル3」とされました。
東海村で臨界事故による被害について考える集会
臨界事故から25年になるのを前に、9月29日は、事故による被害について考える集会が東海村で開かれました。
東海村の公民館で開かれた集会には、地元の住民や原発に反対する団体のメンバーなどおよそ200人が参加し、はじめに臨界事故の犠牲者に黙とうがささげられました。
このあと、事故で被ばくした両親から聞き取った当時の状況などを語り継いできた大泉実成さんが講演し「臨界事故で被ばくし、被害を受けた人がたくさんいたことを覚えていてほしい。福島第一原発の事故でも明らかになったが、原子力施設で事故が起きたときの深刻さや被害者救済の難しさを知ってほしい」と訴えました。
そして、集会が終わると、参加者たちは外に出て、2キロ余りにわたってデモ行進し、臨界事故を忘れるななどと訴えていました。
参加した人たちは「当時の状況についてより多くの人が関心を持つべきだ」とか「臨界事故を知らない世代にも伝え続けていきたい」と話していました。
被ばくし工場を廃業 両親の思い引き継ぎ 事故を語る活動
茨城県日立市に住む大泉実成さん(62)は、臨界事故について語る活動を続けてきました。
大泉さんの父親の昭一さんと母親の恵子さんは、事故の10年以上前、「ジェー・シー・オー」からおよそ100メートルの場所に自動車部品工場を建てて経営してきました。
事故のとき、大泉さんは東京にいましたが、工場にいた両親は被ばくしました。
その後、両親は体調を崩してしまい、廃業することになりました。
大泉さんは「脱サラした父親がやっとの思いで手にした土地や工場であり、人生の結晶のような場所だったのに、臨界事故によってまったく違う意味のものになってしまった。特に母親は、加工会社にあった高い建物が『悪魔の塔に見える』と話し、ここに来ることを避けるようになった」と話していました。
両親は事故後「臨界事故を語り継ぐ会」を立ち上げて、講演会などの場で当時の避難や健康不安など事故について語り続けてきましたが、ともに亡くなりました。
その後、大泉さんが活動を引き継いでいますが、25年がたち、多くの人の中で事故の記憶が薄らいでいくのではないかと危機感を募らせています。
大泉さんは「年月がたって事故を知る人がどんどん減り、記憶が風化していくことはやむをえないと思うが、私の中では風化していない。臨界事故から逃げないで戦ってきた両親を誇りに思っていて、25年がたっても被害を受けた人の気持ちは変わっていないと伝え続けたい」と話していました。
その上で「原子力事故がどれだけの被害をもたらすのか、多くの人が知り、覚え続けてもらいたい。そうした観点を持って、国が進める原子力について考えてもらいたい」と訴えていました。
対応した医師 “医療従事者が放射線事故の情報得る機会を”
東京医療保健大学の明石真言教授(69)は、事故当時、被ばく医療を担う千葉市の放射線医学総合研究所に勤めていて、当日は学会のため広島にいましたが、消防から一報を受けて、3人の作業員が搬送された研究所に戻りました。
当時の状況について明石教授は「大量の被ばくをすると吐くなどの前駆症状が出ることは知っていたが、そのような事故が起きるとは思ってもおらず、驚きだった。被ばく医療に関わってきた私たちにとって大きな事故だった」と振り返りました。
当初は「臨界が起きた」といった情報もなかったということで、救急医療の医師などと連絡を取り合いながら手探りで治療方針を決めていったといいます。
その後、3人の作業員のうち2人は東京大学の施設に運ばれて、それぞれ治療が続けられましたが、亡くなりました。
国内ではこの臨界事故のあとも研究施設や工場などで作業員が被ばくする事故が相次いでいます。
多くの被ばく事故に関わってきた明石教授は「技術的・科学的なことばかりではなく、人間が持つ不確かさを認識することが大事だ。事故には人間の間違いや勘違いなどの要因が潜んでいて、それを避けなければ事故は減らないだろう」と指摘した上で、現場は常にリスクと隣り合わせだということを、作業員だけでなく組織全体で認識することが肝心だと話しました。
一方、被ばく医療を担う人材の確保も重要だとして「被ばく医療に関心を持つ医療従事者を一定数維持する必要がある。放射線による事故はゼロにはならないので、さまざまな診療科の医療従事者が放射線の事故について情報を得られるような機会を作ることが不可欠だ」と述べ、学会などで過去の事故での体験や教訓を共有し続ける必要があると訴えました。