陽一さんの写真とともに、事故現場を5年ぶりに訪れた杉山さんは11日の式典で、陽一さんがいたビルに旅客機が突っ込んだ午前9時3分、そしてそのビルが崩れた午前9時59分などに合わせて黙とうをささげました。
式典では犠牲者一人一人の名前が読み上げられ、杉山さんは夫の名前を聞きながら20年の歳月に思いをはせました。
式典のあと、杉山さんは「20年間頑張ってこられたのはテロに負けてたまるか、絶対にまた子どもたちと一緒に幸せになるんだという気持ちがあったからです。これから先は自分がどう生きていくか考え、前を向いていきたい。夫も見守ってくれているし、何かあればまたここに来ればいいと言っている気がします」と話していました。
陽一さんの駐在に合わせて、一家そろってアメリカで暮らしていました。 20年前の9月11日、長男が「テレビ」とつぶやいたのを聞いて画面を見たところ、世界貿易センターの北棟に旅客機が激突した直後の映像が流れていたということです。 「夫が働いているのは南棟だから大丈夫だ」と自分に言い聞かせましたが、その後、2機目が南棟に激突し、さらに1時間後にビルが崩れ落ちる一部始終を長男とともにテレビで見ていたと言います。 当時の状況について杉山さんは「自分でもこんな声が出るんだと思うほどの大声で泣きました。私の様子を見て長男は固まり、次男はもらい泣きし、3人でパニックになりました」と振り返ります。 その後、ニューヨーク中の病院を探し回ったと言いますが、陽一さんは見つからず、事件から7か月後の翌年4月、右手の親指だけがDNA鑑定などで特定されました。 杉山さんは、夫の親指を火葬して灰をペンダントに入れ、その年の夏、3人の子どもを連れて日本に帰国しました。
そんな夫を「いつか何かを成し遂げる人だ」と感じ、妻として支えることで一緒に成長していきたいと考えていたと言います。 事件のあと、日本に帰国した杉山さんは、残された3人の息子を女手1つであってもしっかり育てることに力を注ぎました。 子どもたちに陽一さんの面影を見ることもあり心の支えになったと言います。 そんな母親について、大学生で次男の力斗さん(21)は「3人の子どもを育てるのはなかなか簡単ではないし、感謝しかありません」と話しています。 長男の太一さん(23)は高校の教師を目指していて、父親を直接知らない三男の想弥さん(19)も、あと半年で成人となります。 杉山さんは「生まれた子どもが成人するだけの年月がたったということで、20年の重みのようなものを感じます」と話し、事件から20年のことしは大きな節目だとしています。 そして、事件が起きた世界貿易センタービルの跡地には陽一さんが今もいるように感じられるということで「あの場所に改めて向き合って、残された人生を歩んでいくためのステップにしたい」と話していました。
また当時、世界貿易センタービルの南棟にいた人が16人、北棟にいた人が6人、北棟に衝突した旅客機に乗っていた人が1人、ペンシルベニア州に墜落した旅客機に乗っていた人が1人です。
杉山さんの9.11
夫への思い 20年目の節目
日本人犠牲者の内訳