マドラサで学ぶ学生はアラビア語で「タリブ」と呼ばれ、現地のパシュトー語の複数形が「タリバン」。
みずから名乗ったのではなく、勢力を拡大していくうちにメディアなどを通じて「タリバン」という呼び方が定着していきました。
社会の急速な共産主義化が進められたため、「ムジャヒディン」と呼ばれるイスラム勢力が抵抗を始めます。 旧ソビエトと対立していたアメリカなどの西側諸国、さらに隣国パキスタンの支援も受けて、旧ソビエト軍は10年後の1989年に撤退に追い込まれました。 しかし、アフガニスタンはその後も内戦状態に突入。 市街戦が繰り広げられ、略奪や女性に対する暴行が横行し、治安は乱れに乱れてしまいました。 一方で、欧米諸国は、旧ソビエトがいなくなったあとは関心を失い、アフガニスタンはいわば国際社会に見捨てられた状況となりました。 そうした状況のなかで、タリバンが結成されたのです。
パキスタンは、アフガニスタンの混乱が深まれば、多くの難民が自国に押し寄せる懸念があったことや、インドとの対立のなかで、アフガニスタンを安定させ、自国の影響力を及ぼしたいという思惑もありました。 このため、パキスタンの軍の情報機関が中心となって資金や武器を供与し、タリバンは結成から2年後の1996年にカブールを制圧し、国土の大半を支配下におさめました。
さらに、外国の勢力を排除することも大きな目標です。 それは、旧ソビエトの軍事介入で国が疲弊したという歴史、さらに、タリバン内部にも多いパシュトゥン人の間で、伝統的に「独立」といった価値観が尊ばれていることも影響しています。 タリバンは、イスラム教を軸とした「アフガニスタン・イスラム首長国」の建国を掲げています。
旧タリバン政権は女性に「ブルカ」の着用を強制したり、教育や就労を禁止しました。 また前政権の幹部の公開処刑など、極端な行動に出て、国際社会からの支援が得られなくなりました。 そこに、アフリカのスーダンにいたとされるアルカイダのビンラディン容疑者がアフガニスタンに拠点を移しました。
タリバンとアルカイダの幹部や戦闘員どうしの家族間での婚姻も行われていたとも指摘されています。 また、タリバンのメンバーは結成以前、共産主義政権と戦っていた際には、アルカイダのメンバーでもあるアラブ系の義勇兵とともに戦っていたため、以前からの戦友のような感覚もあったのではないでしょうか。
2001年のアメリカ軍などによる軍事作戦で政権は崩壊しましたが、タリバンの戦闘員は地盤となっている南部など地元に戻りました。 さらに、パキスタンの国境地帯に潜伏したタリバンの幹部をパキスタンの情報機関などがかばっていたと言われています。 パキスタンの情報機関の中にもパシュトゥン人が一定数いることや、過去の支援から、タリバンの幹部たちとパキスタンの情報機関はいわば「顔見知り」となっていて、パキスタンが陰でこうした幹部の生活を支えていたようです。 その後、アフガニスタンでは、新たな国づくりが始まりましたが、次第に汚職が広がるなどしてうまくいかないことが明らかになり、人心も離れていったため、タリバンの勢力は回復していきました。
アフガニスタンの大部分を占める地方部では“女性が傷つけられては家の名誉に関わる”という考え方が残っていて、そうした考え方は女性の就労や教育を禁止してきたタリバンの考え方に近いという実態があります。 また、これまでのアフガニスタン政府では汚職がはびこり、地方では何かあっても行政機関が十分に機能せず、地域の有力者に相談することで解決することも多いのですが、こうした有力者がタリバンを受け入れたり、タリバン自身が物事の解決や、仲裁に乗り出すこともあるようです。 また、学校は教員が足りずに機能しないことも多く、教育をマドラサやモスクが担い、こうしたところの有力者もタリバンと通じていることもあるそうです。
しかし、アフガニスタンの地方社会などから反発が起きることも予想されるため、認めるとも認めないとも言えない状況だと思われます。 タリバンは当初はパシュトゥン人が主体の運動として始まりましたが、少数派の民族も増えていて、これまで行っていたシーア派や少数派の民族に対する弾圧を抑制しようとする意思があるように見えます。 また崩壊に追い込んだ政権幹部とも会談を持つ動きもこれまででは考えられませんでした。 さらに、民族の違いを言わずに「アフガニスタン人」や「国民」ということばを強調していて、共通しているイスラム教の教えを引き合いに出して、規律を守ることなどを訴えています。
ただ、末端の戦闘員にまで指導部の考え方が広く共有されているかという点には疑問も残ります。
日本はアフガニスタンのインフラや農業の支援に長く関わり、2002年などには東京でアフガニスタン復興会議を開いて、国づくりに協力することを約束しました。
これからアフガニスタンは再び内戦になるかもしれませんし、経済の先行きもわからない状況ですが、常に困っているのは普通に暮らしている人たちです。 一般の人々の生活をどう安定させるのか、何が必要なのか、日本から考えていくことは非常に大事です。 大国はこれまで、さまざまな思惑でアフガニスタンに近づいたり、離れたりしてきましたが、中村哲さんがアフガニスタンにあれだけ受け入れられたのは、かつてのムジャヒディンの時代や旧タリバン政権、その後のアフガニスタン政府のときにも、どの政権かにかかわらず、ずっと農村を支援していたからです。 また、国際社会が関与して安定した社会にしていかないと、アルカイダのときのようにテロの温床となってしまうことも懸念されます。 そのためにも人々の生活の安定が不可欠で、これまでの日本の経験をもとに支援することで、ひいては日本の安全にも寄与するし、日本という国のプレゼンスを高めることにもつながるのではないでしょうか。
専門はアフガニスタンやパキスタンの地域研究。 パキスタンのペシャワール大学で学んだのち、上智大学で研究員を務める。 東京外国語大学ではアフガニスタンとパキスタンの近代史や、パキスタンのウルドゥー語、両国で用いられるパシュトー語を教えている。
Q タリバンが結成されたいきさつを教えてください。
Q なぜタリバンが勢力を拡大したのですか?
Q タリバンは当時何を目指していたのですか?
Q なぜタリバンはビンラディン容疑者とつながったのですか?
Q 旧タリバン政権が崩壊しても、組織は壊滅しなかったのですか?
Q タリバンの強さはどこにあるのでしょうか?
Q 再び権力を掌握したタリバンは何を目指しているのでしょうか?
Q 日本はアフガニスタンにどう関わっていけばいいと思いますか?