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三条公忠

後押小路内大臣と号す。父は内大臣三条実忠、母は左中将藤原公直の娘。 子には太政大臣に至った実冬、藤原(三条)厳子(通陽門院)、実円、実禅がいる。 清華家である三条家の嫡流に生まれた。嘉暦3年 (1328年)に元服。元弘3年 (1333年)には左近衛中将に任じられ、建武4年 (1337年)には従三位に叙された。康永2年

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三条実忠

康永4年(1345年)9月8日、内大臣を辞退した。 貞和2年(1346年)1月6日、従一位に叙せられる。 貞和3年(1347年)1月4日、虚労により薨去。 父:三条実親(1259-1329) 母:家女房 養父:三条公茂(1284-1324) 妻:左中将藤原公直の娘 男子:三条公忠(1324-1384)

三条西公条

『百人一首抄』、紀行文に『高野山参詣記』『吉野詣記』『三塔巡礼記』など、他撰の家集としては『称名院』がある。 稲葉良通に専門的な薬方の相伝を行なっている(『稲葉一鉄良通薬処方口伝書』)。 父:三条西実隆(1455-1537) 母:勧修寺教秀三女 妻:甘露寺元長の娘(?-1552) 男子:三条西実枝(1511-1579)

三条公美

治33年)4月26日、満25歳に達し貴族院公爵議員に就任し、死去するまで在任した。 父の遺産は多くはなく、襲爵した時点で馬車を維持できなくなるほど家計が傾いていた。この状況を見て三条家に恩義がある尾崎三良が山縣有朋に掛け合い、宮内省から思召しとして5万円の公債を引き出すことに成功。公債の利子で馬車

三条公定

建仁2年(1202年)7月23日、参議に任ぜられ、翌年には従三位に昇る。建永元年(1206年)、備前権守・左大弁・勘解由次官を兼ね、位階は正三位に昇るも子の実基が妖言に関係したとして佐渡国に配流となった。 建暦元年(1211年)に帰京し、民部卿を務める。翌年参議に復する。建保4年(1216年)従二位・権中納言に至る。建保6年(1218年)出家。

三条公教

長承2年(1133年) 正月29日:参議、中将如元 父:三条実行 母:藤原顕季の娘 妻:藤原憲方の娘 妻:藤原国隆の娘 - 皇后宮御匣 妻:昭月 - または照月。僧林覚の娘、花園左大臣家家女房 長男:三条実綱(1128年?-1180年) 妻:家女房半物阿古 次男:滋野井実国(1140年-1183年) - 滋野井家祖

三条公房

以後昇進して、建保3年(1215年)12月に内大臣となる。建保6年(1218年)順徳天皇のもとで従一位・太政大臣に叙任される。承久3年(1221年)承久の乱後の12月に上表して致仕。嘉禎元年(1235年)9月に出家し法名を空寂とした。建長元年(1249年)8月16日薨去。享年71。

三条公輝

思召しとして1万円の公債を得ている。 1924年(大正13年)、甥・三条実憲(1902-1924)の急逝を受けて三条家の家督を相続し、公爵となる。貞明皇后と香淳皇后に仕え、宮内省皇后宮主事、皇太后宮事務官を歴任し、1933年(昭和8年)に掌典長に就任し

三条公行

三条 公行(さんじょう きんゆき)は、平安時代後期の公卿。太政大臣・三条実行の次男。官位は従三位・参議。三条と号す。内大臣・三条公教の同母弟。 保安3年(1122年) 右兵衛佐 保安5年(1124年) 従五位上 大治元年(1126年) 正五位下、左少将 天承元年(1131年) 周防介、左少弁 長承元年(1132年)

三条公冬

応永20年正月(1413年2月) 従二位 応永23年正月6日(1416年2月4日) 正二位 応永29年正月5日(1422年1月27日) 従一位 父:三条実冬(1354-1411) 母:水無瀬具景の娘 妻:水無瀬具景の娘 生母不明の子女 男子:三条実量(1415-1484) 男子:水無瀬季兼 男子:実助 『公卿補任』 表示 編集

三条公敦

三条 公敦(さんじょう きんあつ)は、室町時代後期の公卿。左大臣・三条実量の子。官位は従一位・右大臣。 左近衛中将・尾張権守・権中納言・権大納言などを経て、文正元年(1466年)に右近衛大将、文明7年(1475年)には左近衛大将、内大臣となった。さらに文明8年(1476年)には従一位、文明11年(1

三条公頼

帰洛。 1533年(天文2年)12月9日、方仁親王(のちの正親町天皇)別当となる。 1534年(天文3年)10月、守護大内義隆を頼って周防国に下向。 1536年(天文5年)3月、守護武田信虎を頼って甲斐国に下向。5月29日、帰洛。 1538年(天文7年)1月8日、右近衛大将を兼ねる。

三条公茂

^ 『花園天皇宸記』同日の条によると、才能に溢れていたとは言えないが公事に良く通じていた、という評がある。公茂の薨去を上皇が哀惜している様子が記されている。 『公卿補任』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※ 永仁4年(1296年)に公茂が非参議従三位となった時以降の記事。

三条公兼

三位となり公卿に列しているが、元禄13年(1700年)になって突然官位を停止させられた。理由は不詳だが、朝廷内で大きな出来事のあった年でもないので彼個人の問題であると考えられる。弟・公充が三条家を相続し、公兼の子・実顕は公充の後を受けて三条家を相続した。 父:三条実治 母:家女房 妻:広幡豊忠女 男子:三条実顕

三条公睦

なお、三条家を相続した実美は当初、兄・公睦の子の公恭を継嗣としていたが、公恭の素行が悪かったため、これを廃嫡して実子の公美に三条家を相続させることにした。 父:三条実万 母:紀子 - 眉寿姫、山内豊策の娘 妻:恒姫 - 友姫、山内豊資の養女、山内豊著の娘、山内容堂の妹 生母不明の子女 次男:東三条公恭 ^ 中嶋 (1981) 109頁

三条

平安京の条坊の一。 また, 東西に通ずる大路の名。 三条大路。

三条

新潟県中部, 信濃川(シナノガワ)に臨む市。 江戸時代の金物鍛冶(カジ)に始まる金物工業が発達。 法華宗総本山本成(ホンジヨウ)寺がある。

九条忠教

- 従一位、二条兼基正室 ^ 三田、2007年、P102-103. 三田武繁「摂関家九条家の確立」(初出:『北大史学』第40号(北海道大学、2000年)/所収:三田『鎌倉幕府体制成立史の研究』(吉川弘文館、2007年) ISBN 978-4-642-02870-7 補論1) 表示 編集 表示 編集

二条吉忠

月従一位に叙され、元文元年(1736年)8月桜町天皇から関白の詔があり、同時に氏長者・内覧宣旨を賜ったが、同2年(1737年)8月3日所労のために辞職し、即日薨去した。享年49。墓所は二尊院。 後桜町天皇の外祖父に当たることから、33回忌の明和6年(1769年)8月に准三后を追贈されている。 父:二条綱平(1672-1732)

一条忠香

7日、左大臣及び兵杖を辞退し、同日に薨去。享年52。 正室:一条順子 - 伏見宮邦家第二王女 女子:明子 - 柳沢保申正室 側室:新畑民子(花容院) - 一条家典医新畑種成娘 三女:美子 - 明治天皇皇后、昭憲皇太后 側室:家女房 男子:一条実良 養子 女子:峯 - 三条実万の娘、細川韶邦正室 女子:一条美賀子