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စကားဝှက်

စကားလုံးအသေးစိတ်

少弐

[しょうに]
姓氏の一。 武藤資頼が源頼朝に臣従, 鎮西奉行となり, 大宰少弐も兼ねて以降, 姓となる。

少弐

[しょうに]
律令制で, 大宰府(ダザイフ)の次官(スケ)。 大弐(ダイニ)の次位。

ဆက်စပ်စကားလုံးများ

少弐氏

少弐景資:長崎県松浦市鷹島に記念碑がある。 少弐盛経 少弐貞経 少弐頼尚 少弐直資 少弐冬資 少弐頼澄 少弐貞頼 少弐満貞 少弐資嗣 少弐嘉頼 少弐教頼 少弐政資 少弐資元 少弐冬尚:最後の当主 少弐資時:弘安の役で壱岐にて戦死し、壱岐神社の祭神とされた。壱岐芦辺港に銅像がある。 少弐高経 少弐政興:当主として認められてはいない。

少弐貞経

年/延元元年(1336年)2月、子・頼尚を援軍として派遣した際、主力軍が遠征した隙を付かれ菊池武敏や阿蘇惟直ら南朝方の勢力に攻め込まれ、2月29日、有智山城で自害した。享年65。 貞経の死後、3月2日に筑前国多々良浜の戦い後、3月6日に少弐氏の菩提寺安養院に詣で、初七日の法要を営む。その際、尊氏は追悼文を供えた。

少弐貞頼

応永11年(1404年)に九州探題を圧倒するまでに勢力を回復させたが、同年に病死、家督は子・満貞が継いだ。 ^ 『大日本史料』第7編之6 727頁 ^ 『光浄寺文書』 ^ 『横岳系図』 ^ 『大日本史料』第7編之3 2頁 『阿蘇文書』 『藤龍家譜』(二、龍造寺十二代家氏公) 『応永戦覧』(一、大内譜系付義弘威盛之事)

少弐嘉頼

少弐 嘉頼(しょうに よしより)は、室町時代の武将。少弐氏13代当主。 永享5年(1433年)、父・少弐満貞と兄・資嗣が大内持世との戦いに敗れ戦死すると、嘉頼は弟・教頼と共に対馬国に落ち延びることを余儀なくされ、宗貞盛の庇護下に入る。対馬で元服し家督を継いだ嘉頼

少弐頼尚

少弐 頼尚(しょうに よりひさ/よりなお)は、南北朝時代から室町時代にかけての武将。少弐氏6代当主。 元弘3年(1333年)、鎌倉幕府討幕運動である元弘の乱が起こると賛同し、父・少弐貞経に従って九州における北条氏勢力であった博多の鎮西探題北条英時を滅ぼす。建武元年(1334年)、鎌倉幕府滅亡後に後醍

少弐経資

416。 ^ 元の王惲が書いた『汎海小録』に、日本側の将であった「太宰藤原少卿弟宗資」、すなわち大宰少弐経資の弟である宗資を捕虜にしたことが記されている(→こちらの外部リンクを参照)が、日本側の史料や少弐氏の系図には該当人物は無く、実在性には諸説ある。川越泰博「汎海小録

少弐景資

少弐景資公之墓(那珂川市山田475、最寄JR博多南駅かわせみバス安徳台) 岩門城址・高津神社標識(安徳台停留所から用水沿い裂田溝公園手前山側登り行止り奥) ^ 園田和洋 (2014年6月14日). “元寇・文永の役(中) 赤ん坊を股裂き、子供を奴隷として拉致、女性は手に穴開け数珠つなぎ…博多を血

少弐冬尚

尚も家兼と対立することとなった。 その後、冬尚は家兼の曾孫・龍造寺隆信と争い、永禄2年(1559年)に隆信や千葉胤連に攻められ勢福寺城で自害し、少弐氏は滅亡した。 のちに弟・政興が馬場鑑周(あきちか、頼周の孫)らと共に少弐氏の復活を狙って旗揚げするも、果たせなかった。 冬尚

少弐教頼

少弐 教頼(しょうに のりより)は、室町時代の武将。少弐氏14代当主。 永享5年(1433年)、父・少弐満貞と兄・資嗣が大内持世との戦いに敗れ戦死すると、教頼は兄・嘉頼と共に対馬国に落ち延びることを余儀なくされ、宗貞盛の庇護下に入る。対馬で元服し家督を継いだ兄・嘉頼

少弐盛経

少弐盛経は、外はモンゴル帝国の第三次侵攻に備え、内は北条氏の支配が次第に強まる時代の少弐氏の苦難の始まりであった。 徳治3年(1308年)1月25日に、52歳(または55歳)で鎌倉で卒す。 ^ 『武藤少弐興亡史』(p.20)に長男と記述あり。元寇の際に、壱岐で戦死した少弐資時の生年が1263年のためである。 ^ 『武藤少弐興亡史』(p

少弐資元

^ 『歴代鎮西要略』 ^ a b 『歴代鎮西志』 ^ 『史料綜覧』第8編之909 62頁 ^ 『史料綜覧』第9編之909 608頁 ^ 『史料綜覧』第9編之909 717頁 ^ 『史料綜覧』第9編之909 762頁 ^ 『史料綜覧』第9編之909 745頁 『歴代鎮西要略』 『歴代鎮西志』 『北肥戦誌』

少弐政資

には大陸との貿易を頻繁に行うことにより利益をあげ、また、のちには肥前国の九州千葉氏の内紛につけこみ弟を当主として送り込み千葉胤資(たねすけ)と名乗らせるなど、少弐氏を一時的に中興する。 しかし、長年の盟友であった対馬国の宗貞国の離反を許してしまうと、更に応仁の乱の終了後、大内政弘が再び北九州への侵

少弐冬資

少弐 冬資(しょうに ふゆすけ)は、南北朝時代の武将。少弐氏8代当主。少弐頼尚の次男。 父・頼尚の娘婿となり擁立された足利直冬より偏諱を受けて冬資と名乗る(兄・直資の名乗りも同様とされる)。 この頃九州では菊池氏や征西大将軍・懐良親王などの南朝勢力が台頭し、北朝勢力(幕府方)は押されていた。父・頼尚

少弐満貞

永享5年(1433年)3月、幕府から満貞の追討令を受けて九州に下向した大内持世と戦い、有智山城で敗北。筑前秋月城で戦死した。 子・資嗣は肥前国与賀庄の戦いで戦死、嘉頼・教頼は対馬の宗氏を頼って落ち延びた。 ^ a b 『新選事績通考』 ^ 『横岳系図』 ^ 『大日本史料』第7編之6 727頁 ^ 『史料綜覧』第7編之907

少弐資能

資能は北九州に大きな勢力を持ち、幕府の鎮西奉行として、文永5年(1268年)、元の使者の対応にも当たっている。文永の役直前に出家して覚恵と号し家督を長男の経資に譲ったが、老齢の身でありながら自身も九州の総司令官として参戦し、元軍の侵攻を阻止し撃退することに成功する。 弘安4年(1281年)の弘安の役にも老齢

少弐直資

少弐 直資(しょうに ただすけ)は、南北朝時代の武将。少弐氏7代当主。少弐頼尚の長男。 貞和6年/観応元年(1350年)10月頃の段階で、父・頼尚が大宰少弐から筑後守へ名乗りを変え、大宰少弐の名は嫡子・直資に譲られたとされるが、『園太暦』貞和4年8月11日条には「大宰少貮藤原頼喬 筑後守藤原頼尚」と

弐

(1)「二」の大字。 (2)律令制で, 大宰府の次官。 大弐・少弐に分かれていた。

弐

(1)数の名。 一より一つ多い数。 ふ。 ふた。 ふたつ。 (2)一の次の順序。 二番目。 第二位。 つぎ。 「~の矢をつがえる」「~の句」 (3)「二の糸」の略。 「~上(アガ)り」