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စကားဝှက်

စကားလုံးအသေးစိတ်

楚楚

[そそ]
(1)清らかで美しいさま。 多く若い女性についていう。
「~とした美女」
(2)あざやかなさま。 鮮明なさま。
「暁の露うるふ時に~のころもをぬらし/本朝文粋」

ဆက်စပ်စကားလုံးများ

楚

⇒ すわえ(楚)

楚

〔「ずわい」とも〕 「すわえ」の転。 [日葡]

楚

〔後世「ずわえ」とも〕 (1)細く, まっすぐな若枝。 すわい。 「梅の~に巻数付けて/盛衰記28」 (2)刑罰に用いる, むち。 しもと。 「門いづる時ひと~あてたらうに/平家 8」

楚

刑罰の用具。 罪人をむち打つための, 細い木の枝で作ったむち・つえ。 「~取る里長(サトオサ)が声は寝屋処まで来立ち呼ばひぬ/万葉 892」

楚

中国の国名。 (1)春秋戦国時代に揚子江中流域を領有していた国((?-前223))。 春秋中期に五覇の一人荘王を出し, また戦国七雄の一として斉・晋(シン)・秦と覇を争ったが, 秦に滅ぼされた。 中原諸国と種族・文化を異にしていた。 (2)五代十国の一。 馬殷(バイン)が後梁(コウリヨウ)から楚王に封ぜられて建国(907-951)。 湖南を中心に広西の北部を支配。 南唐に滅ぼされた。

盧楚

が、どもりがちで語り口は難解であった。大業年間、尚書右司郎となった。煬帝が江都に行幸すると、盧楚は東都に残ったが、不法を行う官僚を糾弾してやまず、遠慮会釈がなかった。 越王楊侗が皇帝を称すると、盧楚は内史令・左備身将軍・摂尚書左丞・右光禄大夫となり、涿郡公に封じられた。元文都とともに王世充の処断を謀

辛楚

〔「辛」はからい味, 「楚」は人をむちうつ意〕 いたみ苦しむこと。 つらさ。 辛苦。

楚辞

戦国時代末, 楚国に行われた歌謡に基盤をもち, 屈原の作品を主とし, その作風をつぐ弟子や後人の作を集めたもの。 一六巻。 前漢の劉向(リユウキヨウ)編とされ, のち後漢の王逸が自作を加えて一七巻とする。 形式・特色は「詩経」とは全く趣を異にし, 漢の賦(フ)に大きな影響を与えた。

楚歌

古代中国, 楚の国の歌。 → 四面楚歌

苦楚

苦しみ。 辛苦。 「監獄の~を経験したるクロポトキンは/復活(魯庵)」

清楚

(女性の服装・姿などが)清らかですっきりしている・こと(さま)。 「~な装い」「~な花」 ﹛派生﹜~さ(名)

凄楚

非常に悲しく思うこと。 「悲凉~の声を以て/日本風景論(重昂)」

孫楚

石を枕にして、川の流れで(口を)漱ぎたい(枕石漱流、そのような自然の中での暮らしの意味)」と言おうとしたところ、うっかり「石で漱ぎ、流れを枕にしたい(漱石枕流)」と言い間違えてしまった。すかさず王武子に「流れを枕にできるか、石で口を漱げるか」と突っ込まれると、孫子荊は「枕を流れに

張楚

張楚之歳」と書かれたものがあった。楚の紀年法では、「張楚之歳」は張楚が興った翌年を意味するが、その頃には既に張楚は滅んでいたので、滅亡後に他の反乱軍、たとえば項梁らが記した可能性がある。また、湖南省長沙市でみつかった漢代の馬王堆漢墓帛書「五星占」の暦にも「張楚」と記されていた。

桓楚

桓楚 楚 桓楚(かんそ)は、東晋の時代に楚王桓玄が建てた短命の政権である(403年 - 404年)。 403年(元興2年)、東晋の実権を掌握した楚王桓玄が、安帝に禅譲を迫り、帝位を譲り受ける形で成立した政権である。 403年12月20日、安帝は玉璽を献上し、桓玄に譲位した。404年1月1日、桓玄は

周楚

永和3年(347年)3月、東晋軍は彭模に至った。その後の方針を議論した結果、桓温は直進して成都を目指すことを決めた。周楚は参軍孫盛とともに彭模に留まり、弱兵と共に輜重を守ることとなった。後に鷹揚将軍・犍為郡太守に任じられた。 興寧3年(365年)6月、父の周撫が亡くなると、建成公の爵位を嗣ぎ、仮節・監梁

楚雄市

下部に12鎮、3郷を管轄する。 鎮 鹿城鎮、東瓜鎮、呂合鎮、紫渓鎮、東華鎮、子午鎮、蒼嶺鎮、三街鎮、八角鎮、中山鎮、新村鎮、西舎路鎮 郷 樹苴郷、大過口郷、大地基郷 中国国家鉄路集団 楚大線(中国語版) (大理方面)- 楚雄駅 -(昆明方面) 高速道路 杭瑞高速道路 S36 楚広高速道路

平王 (楚)

子胥)をも呼び寄せて殺そうとした。だが伍子胥はこれに応じず呉に亡命したため、伍奢・伍尚を処刑した。これが伍子胥の楚への復讐の火種となり、同時に平王の輿望も衰え、呉による侵攻を防ぎきれなくなり、国力衰退の端緒を作ってしまう。 平王13年(紀元前516年)9月に病没。昭王10年(紀元前506年)の柏挙の

荘王 (楚)

で、当時は王権の象徴とみなされていたものである。その重さを問うということは、すなわちそれを持ち帰ることを示唆したものに他ならず、周の王位を奪うこともありえることを言外にほのめかした一種の恫喝である。周の使者・王孫満(zh)は、これにひるむ事なく言った。問題は鼎の軽重ではなく、徳の有無で