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Детали слова

一条冬良

2年(1493年)には太政大臣に任ぜられる。同年関白を辞任したが明応6年(1497年)再度関白職に復帰した。跡継ぎが居なかったため、兄・教房の孫の房通を婿養子にして家を継がせた。永正11年(1514年)3月27日薨去。享年51。 父・兼良の影響を受け、学問に熱心で古今和歌集の講義を行ったり、新撰菟玖波集の編纂に尽力した。

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一条冬経

天和2年(1682年)2月18日、鷹司房輔が関白を辞職した。朝廷序列の順序を考えれば、左大臣である近衛基熙を関白に任命すべきであったが、霊元天皇は基熙を疎み、慣例を無視して2月24日に右大臣の冬経を従一位関白・藤氏長者に任命するという異例の人事を強行した。以降、霊元朝は冬経対基熙という構図となり、宮廷内

一条房冬

中脇 2017. ^ 『お湯殿の上の日記』 ^ 『二水記』 中脇聖「土佐一条房冬と禁裏・古岳(嶽)宗亘の関係をめぐって」(日本史史料研究会編『日本史のまめまめしい知識』第2巻、岩田書院、2017年) 正宗敦夫編『諸家伝』日本古典全集刊行会、1940年 近藤敏喬『宮廷公家系図集覧』東京堂出版、1994年

一条兼冬

かねふゆ)は、戦国時代の公卿。関白・一条房通の子。一条家12代当主。官位は従一位・関白、左大臣。 天文9年(1540年)従三位、右大臣に叙任される。 天文17年(1548年)6月中旬、若気嘲弄物語(島原図書館松平文庫の蔵書)の写本の奥書に「右一冊者故禅閤<後成恩寺>之述作云々、一笑云々」との一文を記している。

一条忠良

一条 忠良(いちじょう ただよし)は、江戸時代中期から後期にかけての公卿。関白・一条輝良の子。官位は従一位・左大臣、関白。一条家20代当主。大勝寺と号す。余技で自ら茶陶の制作などを行い、その作品が複数現存している。 明治天皇の皇后、昭憲皇太后の祖父にあたる。 天明3年(1783年)従三位となり、寛政

一条兼良

宮本義己『歴史をつくった人びとの健康法―生涯現役をつらぬく―』(中央労働災害防止協会、2002年、237頁) ^ 『看聞日記』応永26年正月13日条 武井和人『一条兼良の書誌的研究』(桜楓社、1987年)ISBN 978-4-273-02166-5 宮本義己『歴史をつくった人びとの健康法―生涯現役をつらぬく―』(中央労働災害防止協会、2002年)

一条実良

福、池田長準の室 養子 男子:一条忠貞 - 醍醐忠順三男 京都の祇園祭の山鉾のひとつ・函谷鉾には、幼少期の実良(嘉多丸)をモデルにした稚児人形「嘉多丸君(かたまるぎみ)」が乗せられている。1839年に函谷鉾が再建された際、稚児に代わってはじめて稚児人形を乗せるにあたり、人形制作を依頼された大仏師の七条左京が

一条輝良

一条 輝良(いちじょう てるよし)は、江戸時代中期の公卿。関白・一条道香の子。官位は従一位・左大臣、関白。一条家19代当主。 明和8年(1771年)に内大臣となり、以後、安永4年(1775年)12月2日、従一位。安永8年3月29日(1779年5月15日)右大臣、天明7年5月26日(1787年7月1

一条昭良

妻:織田頼長の娘 側室:西洞院時直の娘 長男:一条教輔 次男:醍醐冬基 [脚注の使い方] ^ 『一条昭良』 - コトバンク ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、122頁。  ^ 宗徧流十世成学宗囲古美術八光堂 ^ 茶室一覧 恵観山荘日本大百科全書

三条冬子

正親町三条実雅の養女。後花園天皇の上臈局となり、後土御門天皇にも旧院上臈局として仕えた。以後、清華家出身の宮廷女房は上臈となり、赤青色の衣を許され、陪膳に候した。 1489年(延徳元年9月9日)、死去。享年49。 ^ a b 「日本人名大辞典」(講談社) ^ 「朝日日本歴史人物事典」(朝日新聞出版)

北条貞冬

北条 貞冬(ほうじょう さだふゆ)は、鎌倉時代末期の武将。北条氏の一門で金沢流北条氏の出身。父は15代執権である北条貞顕(金沢貞顕)。「冬」の片字は吉田定房の弟・冬方の偏諱である可能性が考えられている。金沢 貞冬(かねさわ さだふゆ)とも呼ばれる。 父は金沢貞顕。生母は側室の薬師堂殿(吉田氏)とされ

三条公冬

応永20年正月(1413年2月) 従二位 応永23年正月6日(1416年2月4日) 正二位 応永29年正月5日(1422年1月27日) 従一位 父:三条実冬(1354-1411) 母:水無瀬具景の娘 妻:水無瀬具景の娘 生母不明の子女 男子:三条実量(1415-1484) 男子:水無瀬季兼 男子:実助 『公卿補任』 表示 編集

二条冬実

・関白、左大臣。河内国玉櫛荘(大阪府東大阪市)を本拠とし、玉櫛(たまくし)と号する。父祖と同様、南朝に仕えた。 南朝の補任記録が残されていないために官歴は不明の点が多いが、中納言・中将から左近衛大将に転任し、弘和元年/永徳元年(1381年)12月には右大臣として見任。元中元年/至徳元年(1384年)

一条

五摂家の一。 藤原北家。 九条家より分立。 道家の子実経を祖とする九条流の嫡流で, その称は居所の一条坊門にちなむ。

一条

(1)ひと筋。 「~の川」「~の閃光」 (2)箇条書きのひとくだり。 一箇条。 また, 第一条。 「~の条文」 (3)ある事柄のなりゆき。 一件。 一事。 「拙者が絶命の~今日(コンニチ)に迫り/人情本・梅美婦禰 4」

一条

※一※ (名) (1)細長いものの一本。 一条。 「ほつれ毛が~頬(ホオ)にかかる」「~の川」「~の光明」 (2)一つの血統。 一族。 「ただこの~のかく栄え給ふべきとぞ見申す/大鏡(師輔)」 (3)一道。 一芸。 「無能無才にして此~につながる/幻住庵記」 (4)〔銭緡(ゼニサシ)一本に一文銭を百個通したことから〕 百文。 「いやがつて月に~づつがのみ/柳多留 3」 (5)「一筋縄」の略。 「左平次も~ではいかぬやつ/滑稽本・膝栗毛 8」 ※二※ (形動) (1)そのことだけに意を用いるさま。 いちず。 「~に思いつめる」「学問~に生きる」 (2)一様であるさま。 並一通り。 「我が恋の~ならず悲しきは逢ふを限りと思ひだにせず/狭衣2」

二条晴良

天正6年(1578年)、関白を辞任し、翌年54歳で死去した。 以下表中、日付は旧暦、西暦年は和暦年を日付にかかわらず単純にユリウス暦に置換したものである。 能書家として有名だった。 父:二条尹房 母:九条経子 - 九条尚経の長女 室:位子女王 - 貞敦親王の娘 長男:九条兼孝(1553-1636) -

二条良基

啖呵を切ったとされる(『続本朝通鑑』)。この過程で和平構想に失敗した公賢とその縁戚である一条経通・鷹司師平らの政治力は失墜し、政務は年若い新帝や政治経験の無い広義門院を補佐する形式で良基とその側近達及び九条経教・近衛道嗣ら新帝支持を決断した少数の公卿らによって運営していくことになる。

九条良経

った。しかし元久3年(1206年)3月7日深夜に頓死。享年38。 良経は和歌や書道、漢詩に優れた教養人だった。特に書道においては天才的で、その屈曲に激しく線に強みを加えた書風は、のちに「後京極流」と呼ばれた。また、叔父慈円を後援・協力者として建久初年頃から歌壇活動が顕著になり、同元年『花月百首』、

九条良平

元久元年(1204年)3月6日、参議に任ぜられる。左中将は元の如し。同年4月12日、従三位に昇叙。 元久2年(1205年)1月29日、備後権守を兼ねる。 建永元年(1206年)1月16日、正三位に昇叙。同年4月25日、復任。 承元元年(1207年)6月26日、復任。