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万多親王

万多親王(まんだしんのう/まんたしんのう)は、桓武天皇の第五皇子。初名は茨田。官位は二品・大宰帥、贈一品。旧字を用いると萬多親王。 延暦14年(795年)周防国の田百町、山八百町を賜る。延暦20年(801年)元服。 嵯峨朝にて右大臣・藤原園人らとともに『新撰姓氏録』を編纂し、弘仁5年(814年)に完成させた(この時の

Связанные слова

親王

(1)天皇の子供を敬っていう語。 皇子・皇女。 (2)(父である神に対して)キリストを敬っていう語。 「神の~」「救いの~」 (3)親王。 親王宣下を受けた天皇の皇子。 「仁和のみかど, ~におましましける時に/古今(春上)」 (4)他人を敬ってその子をいう語。 「主を殺さぬ事, ~の君ぞしらせ給へる/読本・春雨(捨石丸)」

親王

〔「しんおう」の連声〕 皇族男子の身位の一。 律令制では, 天皇の兄弟・皇子をいったが, 淳仁天皇(在位 758-764)以後は親王宣下のあったもののみに限られた。 旧皇室典範では, 皇子から皇玄孫にわたる皇族男子をいった。 現制度では, 嫡出の皇男子および嫡男系嫡出の皇孫の男子をいう。 ⇔ 内親王

波多親

を命じられた。 帰国の途に着くが、激怒していた秀吉は名護屋への上陸を許さず、弁明できぬまま船上で今までの落ち度を責められる書状を渡され、所領没収の上で徳川家康預かりとする旨が伝えられた。 常陸国筑波に配流となって同地で病死したとする説が通説であるが、『野史』では汚名を雪ぐ

親子万才

決心をする。生活を支えるため、淳子は昼はスーパーマーケット、夜は飲み屋で働くことに。しかし、そんな母を幸宏は強く心配して、どうしていいかわからなくなり家を飛び出す。一家の大黒柱を亡くした母と子。生活上などの不安、不動産や地主による立ち退き工作に揺らぐ

王万線

王万線(おうばんせん、中国語: 王万铁路)は中華人民共和国の中国国鉄の鉄道路線。 黒竜江省ハルビン市王崗駅と万楽駅を連絡している全長36kmの路線である。 表示 編集

親王家

〔古く「しんのうげ」か〕 中世以後, 親王の称号を許された皇族の家筋。 江戸時代には, 伏見宮・桂宮・有栖川宮(アリスガワノミヤ)・閑院宮の四家があった。

法親王

守覚法親王 覚行法親王 尊覚法親王 覚恵法親王 公弁法親王 真寂法親王 性円法親王 尊円法親王 覚雲法親王 慈道法親王 守澄法親王 澄覚法親王 尊朝法親王 覚法法親王 慈胤法親王 尭延法親王 最雲法親王 覚深法親王 覚快法親王 静恵法親王 聖雲法親王 尭恕法親王 尊性法親王 円恵法親王 道法法親王 尊純法親王

内親王

(ひめみこ)姫宮(ひめみや)などがある。 また古来から、第一皇女を女一宮(おんないちみや)、その順に女二宮、女三宮と称す。 明治時代に入り、皇室典範成案が起草されるにあたり、その第35条にて従来の皇女に留まらず、親王妃にも内親王、王妃を女王と規定する条文の策定が検討された。しかし、有栖川宮熾仁親王が

親王妃

親王・内親王・王・女王の身位が「憲仁親王」のように名の後に付され呼称の一部と見なされるのに対し、親王妃及び王妃は「憲仁親王妃久子」のように用いられる。親王・内親王の表記にならって「久子親王妃」のような逆順の表記をすることは、公式表記の観点からは誤用となる。 親王妃は夫たる親王が皇位を継承すると、皇后となる。

醇親王

醇親王(じゅんしんのう、和碩醇親王、満州語: ᡥᠣᡧᠣᡳ ᡤᡠᠯᡠ ᠴᡞᠨ ᠸᠡᠩ、転写:hošoi gulu cin wang)は、清の皇族(世襲王家)。道光帝の第7子である奕譞を初代とする。醇親王家からは光緒帝・宣統帝(溥儀)の2代の皇帝を輩出した。 奕譞 - 初代醇親王。光緒帝の実父。 載灃 -

粛親王

第10代粛親王善耆は、清末に立憲君主制による近代化改革を推進し、辛亥革命後に清朝復辟運動を行った。善耆の第14王女愛新覚羅顯㺭(㺭は王偏に子)は、川島浪速の養女となって川島芳子を名乗った。 ホーゲ(豪格) - 初代粛親王。 富綬(中国語版) - 第2代粛親王。 善耆 - 第10代粛親王。

多田親愛

に大きく貢献した。 明治27年(1894年)に博物局を辞め、書に専念、明治38年(1905年)4月18日に64歳で下谷西町24の寓居で永眠した。墓所は黄檗宗牛頭山弘福寺(墨田区向島5-3-2)にあり、戒名を覚性院堪道唯心居士とする。 『月映鏡』 月映鏡 みがきつる かがみにうつる月影は ひかりのうへの ひかりなりけり 親愛

貞宮多喜子内親王

御養育主任として楫取素彦が命じられ、その妻・美和子も貞宮に仕えることとなった。青山離宮内の貞宮御殿で養育されたが、病弱であり、1899年(明治32年)1月11日、脳膜炎のため、数え3歳(満1歳)で夭逝した。同年10月、楫取によりその遺品が防府天満宮に奉納され、貞宮遥拝所も建立された。それ以後、毎年1月11日には遥拝式が行われている。

多婁王

多婁王(たるおう、生年未詳 - 後77年)は、百済の第2代の王(在位:28年 - 77年)であり、始祖の温祚王の嫡男。10年に太子となり、28年2月に温祚王の死去により王位についた。諱・諡は伝わっていない。子に己婁王。 先王のときと同じく、即位当初から東北辺の靺鞨との戦いが続いた。初めのうち(30

多嘉王

父:久邇宮朝彦親王 母:泉亭靜枝子 兄弟:男子 - 邦憲王 - 邦彦王 - 守正王 - 多嘉王 - 暢王 - 男子 - 鳩彦王 - 稔彦王 兄弟:女子- 智當宮 - 栄子女王 - 安喜子女王 - 飛呂子女王 - 絢子女王 - 素子女王 - 懐子女王 - 篶子女王 - 純子女王 妻:水無瀬静子 子: 第1王女:発子女王(1911年4月16日

重明親王

日輪が家に入り金鳳が飛来する夢を見て、将来帝位に関わる兆しかと期したという伝説がある(親王の邸宅は後に藤原兼家に伝領された東三条殿) 。 ある時、蕃客(渤海の使者)が参入した時、親王が鴨毛の車に黒貂の皮衣を八重重ねで纏っていたので使者たちが大いに恥じたと言われ、風雅を愛する一方で豪気な一面も持ち合わせていたらしい(『江家次第』)。

興良親王

「興良・常陸親王考」(『獨協経済』第74号 獨協大学経済学部、2001年9月、NCID AN10392436) 前田徹 「観応の擾乱と赤松則祐」(『兵庫県立歴史博物館紀要 塵界』第23号 兵庫県立歴史博物館、2012年、NCID AN10176882) 新井孝重 『護良親王―武家よりも君の恨めしく渡らせ給ふ』 ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉、2016年、ISBN

兼明親王

う。これに憤慨した兼明親王は、後に『本朝文粋』に収録された漢詩「菟裘賦(ときゅうふ)」の中で、「君昏くして臣諛ふ」と円融天皇や兼通・頼忠を痛烈に非難している。 寛和2年(986年)中務卿を辞し、その後は嵯峨に隠棲した。同年に嵯峨野の亀山に山荘(雄倉殿)造営の際清泉が無いのを嘆き、亀山の神に祈って霊

保明親王

妃:藤原仁善子(本院御息所)(?-946) - 藤原時平の娘(一説に藤原定方の娘?) 王子:慶頼王(921-925) 王女:煕子女王(?-950) - 朱雀天皇女御 妃:藤原貴子(中将御息所)(904-962) - 藤原忠平の長女 妃:参議藤原玄上の娘 - 後に藤原敦忠、藤原文範と再婚 表示 編集 表示 編集