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Словарь

Детали слова

杉重矩

杉 重矩(すぎ しげのり)は、戦国時代の武将。周防・長門国を本拠とする戦国大名・大内氏の家臣。豊前守護代・杉重祐の子、または養子。杉重清の子か。子に重輔、正重。 享禄3年10月14日(1530年11月3日)付の防府天満宮棟札に「杉七郎重信」の名が見えるのが史料上の初見である。

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板倉重矩

板倉 重矩(いたくら しげのり)は、江戸時代前期の大名。老中・京都所司代。三河深溝藩主、中島藩主、下野烏山藩主。重昌流板倉家第2代。 板倉重昌の長男。寛永5年(1628年)に大御所徳川秀忠・江戸幕府3代将軍徳川家光に拝謁した。寛永11年(1634年)2月29日に従五位下主水佑に叙任された。

竹中重矩

天正7年(1579年)6月13日、播磨国の陣中で病死した兄・重治に代わり、同月22日、羽柴秀吉の与力として遣わされた。天正10年(1582年)3月、信長に従い信濃国に出軍している。 しかし、同年6月に信長が本能寺の変で死去した後、美濃国不破郡表佐村で起こった郷士一揆と戦って戦死した。享年37。 小西大樹(大河ドラマ『功名が辻』2006年、NHK)

杉重良

杉 重良(すぎ しげよし)は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大内氏、毛利氏、大友氏の家臣。豊前松山城主。幼名は松千代丸。通称は七郎。大内氏家臣である杉重輔の長男で、子に杉元良がいる。 天文23年(1554年)に大内氏家臣・杉重輔の子として生まれたが、弘治3年(1557年)に父・重

杉重輔

杉 重輔(すぎ しげすけ)は、戦国時代の武将。大内氏の重臣。杉重矩の子。重良の父。 戦国大名大内氏の重臣・杉重矩の子として誕生。弟に正重がいる。 父・重矩は天文20年(1551年)の陶晴賢による主君・大内義隆殺害と、大友晴英(大内義長)の大内氏当主擁立(大寧寺の変)に加担したが、天文22年(1553

矩

外惑星の視黄径と太陽の視黄径とが九〇度の差となる現象。 また, その時刻。 太陽の西側で矩になる時を下矩または西矩, 東側で矩になる時を上矩または東矩という。

矩

(1)「曲尺(カネジヤク)」に同じ。 (2)まっすぐなこと。 直線。 また, 直角。 「~に渡いておし落さるな/平家 4」 (3)模範。 手本。 規矩(キク)。 「諸人の~となしぬ/洒落本・深弥満於路志」

矩

〔動詞「のる(宣・告)」の連用形から。 上位の者が下位の者に与えた宣告の意が原義〕 ❶のっとるべき事柄。 (1)法律。 法令。 「商返(アキカエ)しをすとの御~あらばこそ/万葉 3809」 (2)道理。 道徳。 「諍ひ諫めて節に死するは是れ臣下の~なり/太平記 4」 (3)方式。 やり方。 「ことばに定まれる~なし。 只心を得て思ひを述べば, 必ず感応あるべし/沙石 5」 (4)〔仏〕 〔「法」の訓読みから〕 仏法。 仏教。 仏典。 《法》「色にのみそめし心のくやしきを空しと説ける~ぞうれしき/新古今(釈教)」 ❷基準とする長さ。 《法》 (1)距離。 みちのり。 「道ノ~五里ナリ/日葡」 (2)寸法。 さしわたし。 「内~」 (3)建築・土木で, 垂直を基準にした傾斜の度合。 また, その傾斜した面。

上杉重房

鎌倉明月院に木造上杉重房坐像(国の重要文化財)が所蔵されている(鎌倉国宝館に寄託)。 父:藤原清房 母:不詳 妻:不詳 男子:上杉頼重 女子:山名政氏室 女子:足利頼氏側室 ^ 現在の京都府綾部市上杉町周辺。 ^ 「上杉重房」『日本人名大辞典』講談社。https://kotobank.jp/word/上杉重房-33782。 

上杉重定

三郎を養子とする内約を結び、宝暦10年(1760年)に実子が生まれたのにかかわらず養嗣子として迎えた。これが上杉治憲(鷹山)である。また、藩医の藁科松伯の薦めにより細井平洲を招き、明和元年(1764年)には治憲と共に講義を受ける。 明和4年(1767年)4月24日、多病を理由に治憲に家督を譲って隠居

大杉重男

退学。同年、『群像』3月号に「文学のふるさと再考―葛西善蔵論」発表。4月、『早稲田文学』に東浩紀、池田雄一、伊東貴之との座談会「思考の地盤沈下 なだれおちる九○年代批評をめぐって」が掲載される。『国文学 解釈と教材の研究』10月号の「特集 小説を読む、家族を考える―明治から平成まで」に「家族の仮死と

杉浦重剛

若き日の昭和天皇、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王の3兄弟に帝王学の一環として倫理を進講する。号は梅窓または天台道士。学生時の渾名は紙魚(しみ)。後に『人格高邁の国士』と評される。理学宗の世界観を確立。 近江国膳所藩の儒者・杉浦重文(蕉亭)と妻・八重の間に次男として生まれる。3歳のと

杉崎重光

コロンビア大学へ留学する。米国留学組に藤原武平太らがいる。 1967年にコロンビア大学大学院国際関係論修士課程を修了し、8月に帰国して主税局国際租税課租税協定係長となる。1970年に地方勤務で左京税務署長となる。 1971年7月に国際金融局総務課長補佐(企画調整・渉外)、1974年7月に主税局国際租

杉村重郎

杉村 重郎(すぎむら じゅうろう、1953年10月2日 - )は、アニメーション制作プロデューサー。北海道札幌市出身。ぎゃろっぷ所属。 報道カメラマンを目指していたがアニメーション専門の撮影技師となる。『キテレツ大百科』や『魔女の宅急便 』などで撮影監督を務めた後プロデューサーに転身し、『こちら葛飾

杉原重玄

承応2年(1653年)10月14日に死去した。享年17。嗣子が無かったため杉原氏は断絶し、改易されて豊岡は天領となった。この時、豊岡城も廃城とされた。養父・重長の従祖父の義正(杉原家次の弟)が始祖の庶流が旗本(杉原長氏など)として、家名は存続している。 父:竹中重常 母:杉原長房の娘 養父:杉原重長(1616-1644)

杉原重長

重長には娘が1人いるだけで男児がいなかったため、父・長房の外孫に当たる重玄(交代寄合・竹中重常の三男)を養嗣子に迎え、自分の一人娘を娶わせることで跡を継がせようとしたが、この末期養子は認められず、重長の死後、豊岡藩は2万石から1万石に減知された上で重玄の家督相続が認められた。 父:杉原長房(1574-1629)

杉原盛重

、大内氏と争った神辺合戦で活躍した。大内氏の勢力を継承した毛利氏の傘下となった理興が、弘治3年(1557年)に継嗣のないまま死去すると、盛重はその勇猛ぶりが毛利氏重臣である吉川元春に評価され、理興の跡を継いで備後国神辺城主となった。 その後、毛利方の武将として各地を転戦するが、盛重の杉原家相続に異を

上杉重能

上杉 重能(うえすぎ しげよし)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武士。足利尊氏・直義とは従兄弟である。 勧修寺道宏の子として誕生。後に母・加賀局の兄弟である上杉重顕・憲房の養子となる。 建武政権下では関東廂番六番の一員として鎌倉に下向。『太平記』には竹の下合戦において、偽の綸旨を作り、渋る尊

矩形

〔「矩」は直角の意〕 長方形。

矩形

長方形。 くけい。