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Детали слова

艮

[ごん]
〔「こん」とも〕
易の八卦の一。 算木で☶の形で示す。 動きのとれないさまを表し, 北東(うしとら)の方角に配する。

艮

[うしとら]
方角を十二支にあてていうときの丑と寅との中間の方角。 北東の方角。 鬼門(キモン)にあたる。

Связанные слова

儒艮

海牛目の哺乳類。 体長3メートルに達する。 体は紡錘形で, 前肢はひれ状, 後肢は退化し, 半月状の尾びれをもつ。 海草類を食べる。 紅海・東アフリカ沿岸から, 東南アジア・沖縄にいたる浅海に分布。 古来, 人魚に擬せられる。 ザンノイオ。

艮部

上にある会意文字である。その解釈として『説文解字』は「很」(音はコン、もとるの意)であり、目で睨んで互いに譲らないとする。 その他、「狠」(音はコン、凶悪の意)の本字で、振り返った人が目を怒らせて見る様子に象るとしたり、呪眼を象るとした説がある。 偏旁の意符としては眼に関することを示すと思われるが、

王艮

王艮の学問は、格物説に独創性を持ったもので、それは自我を至上として「独善」からの脱却を説くものであった。この場合の「独善」とは、治国平天下(国を治め天下を平らかにすること)の理想を顧みることなく、自己の修養のみにつとめる態度とされる。これに関連して、万物一体の思想も説いた。

孟艮府

1405年(永楽3年)、明により孟艮禦夷府が置かれた。孟艮禦夷府は雲南省に属し、刀氏が土司として知府を世襲した。正統年間にその地の多くは木邦に併呑された。 1659年、南明の永暦帝がミャンマーに逃れると、李定国が孟艮に拠った。清代には孟艮はミャンマーのタウングー王朝やコンバウン王朝に属した。

艮絶串

遠くから見ると尖った長い竹竿(간짓대)の様に見えるため艮絶串という名が付いた。また、“간(艮)”が「竿(간)」で、「절(絶)」が“길다(長い)”の方言である“질”の借音であるとも解釈できる。 別名カンジルクッ( 간질끝)、カンジョラプ(간절압(竿切―))、または日本式に「岬」の字を使い艮絶岬(カンジョルガプ、간절갑)とも呼んだ。

安積艮斎

給せられる。艮斎は朱子学だけではなく、危険視されていた陽明学など他の学問や宗教も摂取した新しい思想を唱え、また、外国事情にも詳しく、海防論の論客としても知られた。 天保14年(1843年)に二本松藩校敬学館の教授となり150石を給せ

中岡艮一

が長続きせず辞めて、1919年(大正8年)11月から山手線大塚駅の駅夫見習い、のち大塚駅の転轍手(線路の分岐器を操作する仕事)となる。 大塚駅在職時の1921年(大正10年)、当時の首相・原敬の政策に反感を抱き、同年11月4日夜、東京駅乗車口(現在の丸の内南口)において立憲政友会京都支部大会へ赴く

井関盛艮

井関 盛艮(いせき もりとめ、天保4年4月21日(1833年6月8日) - 明治23年(1890年)2月12日)は、幕末の宇和島藩士、明治期の官僚・実業家。初名は峰尾・字は公敦。通称は斎右衛門。書によっては名を「盛良」(もりよし)とするものもある。 藩主伊達宗城に仕え、安政6年(1859年)に山奉行

後藤艮山

開いた。「一気滞留論」を唱え、治療は灸を施し、熊胆、蕃椒(トオガラシ)を服用させ、湯に入ることを奨励したので、「湯熊灸庵」と評された。『傷寒論』のみでなく、『黄帝内経』『難経』なども参考にし、卑近な材料を用い、民間医療も取り入れた。空理を避けて、親試実験を説いて、古方派の範とされた。医書を著すこと

黒川利雄

「消化管多方向撮影の基礎と実際」西山正治 新興医学出版社 1977 「山上に山あり 医道62年 黒川利雄自伝」河北新報社 1979 「艮陵百十年」東北大学医学部同窓会 1983 「艮陵の教授たち 東北大学における医学教育の源流」桜井実 金原出版 1986 「宮城のお医者さん」読売新聞社東北総局編 宝文堂 1986

高松城 (讃岐国)

1671年(寛文11年)の松平氏による大改修で、北の丸と共に増設され、主に米蔵や艮櫓、巽櫓などが建てられた。現在、艮櫓は桜の馬場の太鼓櫓跡に移築されており、艮櫓の櫓台やそれに続く石垣以外は埋め立てられて、県民ホール(アルファあなぶきホール)や香川県立ミュージアム、松平公益会などが建っている。

木々津克久

アリスとうさぎの儒艮事件(『チャンピオンRED』、2018年3月号、単行本『フランケン・ふらん Frantic』第1巻に収録) 女子高生のありすとうさぎは水死体を見つける。その死体は日々、様子が変わって行き、儒艮となった。 アリスとうさぎの犬権問題(『チャンピオン

仙台城

年(平成24年)に本丸跡の一部が国史跡に追加指定された。 本丸北東部に位置する艮櫓(うしとらやぐら)を復元する計画があったが、石垣保存問題と国の史跡指定地であることなどを理由に2003年に中止となった。 本丸に自家用車や観光バスなどで来た場合は裏側にある埋門(うづみもん)跡から入ることになる。 現在では宮城縣護國神社がある。

立石新吉

の面々、台北市動物園、第二師範からも助勢があり、正味6時間に渡って行われた。』『 「儒艮の解體所見」(挿圖3,圖版8)は「科學の臺灣」第6巻第5号(昭和13年11月20日、臺灣博物館協會)に発表された。この号は「儒艮特別號」と題され、表紙にはジュゴンの骨格、裏表紙にはトレス海峡のジュゴンが彫刻された真珠貝の写真をあしらっている。』

北東

前漢の書籍『淮南子』天文訓では夏至の日に太陽が出るところが東北維とされている。他の古方位では十二支で丑と寅、八卦で艮で表された。このため日本では十二支の和訓からこの方角のことをうしとらといい、艮の訓にも当てた。さらに細かく十二支・八卦に十干を交えた二十四方位でも艮が用いられる。 日本の陰陽道で、この方位は鬼門とされ、忌み嫌われた。