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佐介流北条氏

の時点では時房の後継者の地位にあったと思われるが、鎌倉へ戻って以降は要職に就任せず、多くの息子も要職に就いていないことから、9歳下の弟である朝直(大仏家)との家督争いに敗北したと見られる。朝直の義父でもある泰時が、朝直を重んじて時盛を排除することで時房流を分裂させ、泰時流(得宗家)の安定を図ったとす

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名越流北条氏

名越流北条氏(なごえりゅうほうじょうし)は、鎌倉時代の北条氏の分流。鎌倉幕府2代執権・北条義時の次男・北条朝時を祖とする。名越の地にあった祖父・北条時政の邸を継承したことにより名越を称し、母方の比企氏の地盤を継いで代々北陸や九州の国々の守護を務めた。 創設当初の名越流

大仏流北条氏

大仏流北条氏(おさらぎりゅうほうじょうし)は、鎌倉時代の北条氏の分流。始祖は北条時房の四男・北条朝直。時房流の嫡流であり、朝直の子から様々な庶流がある。 初代朝直は、従兄で得宗家当主の北条泰時の娘を妻としたことから北条一族のなかで重んじられていたようであり、子孫は代々鎌倉幕府の要職につき、3代宗宣

金沢流北条氏

の北条氏の分流。武蔵国久良岐郡六浦庄金沢郷(現在の神奈川県横浜市金沢区)の地が家名の由来とされているが、通称として使われるのは南北朝以後。鎌倉幕府第2代執権・北条義時の五男・実泰(初め実義)から分かれ、家格は実泰の同母兄・政村の嫡系に次ぎ、実時が政村の娘を、貞顕が時村(政村の子)の娘

宗政流北条氏

宗政流北条氏(むねまさりゅうほうじょうし)は、鎌倉時代の北条氏の分流。得宗家から分家した一族で、始祖は北条宗政の子・北条師時である。 北条宗政は第5代執権・北条時頼の子で、第8代執権・北条時宗の同母弟に当たる。兄・時宗の補佐役として枢機に参政したが、弘安4年(1281年)8月9日に29歳で死去した。

北条氏

北条時輔(時頼の長男) 北条時宗(時頼の次男。8代執権) 北条宗政(時頼の三男) 北条義宗(長時の長男) 北条顕時(実時の長男) 北条貞時(時宗の長男。9代執権) 北条師時(宗政の子。10代執権) 北条朝直(時房の四男) 北条宣時(朝直の子) 北条宗宣(宣時の長男。11代執権) 北条時村 (政村流)(政村の子)

北条流

甲州流軍学を大成した小幡景憲の高弟であった北条氏長は、それまでの軍学(兵学)から、中世における迷信・邪説的要素である軍配(日取りや方角の吉凶を占う)や精神的な教訓・因習や道徳などを廃し、合理的な軍学を体系化した。また、氏長は、『士鑑用法』を著わし、軍学を泰平の世における武士の精神修養法とした。

北条氏規

政略結婚からみる戦国大名』平凡社〈中世から近世へ〉、2017年12月。ISBN 978-4-582-47736-8。  黒田基樹『北条氏政 乾坤を截破し太虚に帰す』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本選評伝〉、2018年2月。ISBN 978-4-623-08235-3。  『北条氏規』 - コトバンク

後北条氏

後北条氏(ごほうじょうし/うじ)・後北條氏・小田原北条氏(おだわらほうじょうし/うじ)・相模北条氏は、武家・華族であった日本の氏族。 本来の氏は「北条(北條)」であるが、鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏と区別するため、「後」を付して「後北条氏」、相模国小田原の地名から「小田原北条氏」、「相模北条氏」とも呼ばれる。 北条早雲

北条氏直

北条 氏直(ほうじょう うじなお)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。相模国の戦国大名で小田原城主。後北条氏の第5代当主である。父は北条氏政、母は武田信玄の娘・黄梅院。父と共に後北条氏の最大版図を築き上げたが、外交の失敗で豊臣秀吉による小田原征伐を招き、後北条氏の関東支配は終焉を迎えた。

北条氏政

北条 氏政(ほうじょう うじまさ)は、戦国時代の相模国の戦国大名・武将。後北条氏の第4代当主。父は北条氏康、母は今川氏親の娘・瑞渓院。今川義元の甥にあたる。子に北条氏直など。正室の黄梅院は武田信玄の娘で、武田義信や武田勝頼とは義兄弟にあたる。通称は新九郎で、官位の左京大夫または相模守も同様に称した。号は截流斎。

北条氏康

が鳴くを聞けば、身に不吉が起る」と告げたため、即興で歌を詠み、「きつね」を句によって分けた歌で凶を返したため、狐は翌朝に倒れて死んでいたという。 夏はきつ ねになく蝉のから衣 おのれおのれが身の上にきよ — 小田原北条記、北条氏康 小田原市谷津には、この夏狐の逸話を元亀元年とし、その後に狐の霊が

北条氏邦

北条 氏邦(ほうじょう うじくに) / 藤田 氏邦(ふじた うじくに)は、戦国時代の武将。北条氏康の五男。 従来の通説では氏康の四男で、正室・瑞渓院を母とするとされていたが、元亀2年(1571年)における北条家中での序列が、それまで弟とみられてきた氏規どころか氏康の養子(実際は甥)である氏忠よりも下

北条氏舜

弟の氏勝だとされてきた)、確認後も文書の残存率が低く、わずか7通しかない。また、どのように死去したのかもいまだ不明である。 伊東潤 『戦国鎌倉悲譚 剋』(2011年2月 講談社) 『歴史群像シリーズ14 真説戦国北条五代 早雲と一族、百年の興亡』(1989年、学習研究社) ISBN 405105151X

北条氏照

政略結婚から見る戦国大名』平凡社〈中世から近世へ〉、2017年12月。ISBN 978-4-582-47736-8。  黒田基樹『北条氏政 乾坤を截破し太虚に帰す』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本選評伝〉、2018年2月。ISBN 978-4-623-08235-3。  浅倉直美 編『北条氏照』戒光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究

北条氏繁

、天正6年(1578年)、父に先立って対佐竹氏の最前線、下総飯沼城中にて病死した。跡を嫡男の氏舜が継いだ。 氏繁は自分の印判に『易経』からとった「顚趾利出否」という文を刻んだ。政治秩序が顚倒しており、旧弊を一掃するのに好都合だという時勢観を表したものである。『北条記』の「北条常陸守氏重事」によれば

北条氏昉

の死去により家督を継ぐ。相次ぐ百姓一揆や打ちこわしなどの社会不安に対応するため、安永3年(1774年)に軍用方を設置し、安永6年(1777年)には軍備充実のために軍資金の積立を行なった。安永10年(1781年)2月に駿府加番に任じられている。 しかし相次ぐ軍事費をはじめ、天明2年(1782年)7月に

北条氏治

を継いだ。しかし、氏宗は将軍に御目見することが一度もなく、官位も叙任されていなかった。このため、老中の稲葉正則の反対があって家督相続が認められないという異例の状態が続いたが、北条一族の運動により大老の酒井忠清の取り成しで、氏治は新たに藩を立てるという名目で1万石が与えられた。

北条時氏

の守護となった。若き時氏は将来、第4代執権となることを期待されていた。 時氏の六波羅探題在任中の京洛周辺は、先の承久の乱の余波で治安が乱れており、京都の警備担当者として治安の取り締まりに当たる一方、得宗家の嫡子である事から南北両探題の主導的立場にある執権探題として在職した。

北条氏重

の北条家では、義兄の繁広(氏勝の実弟でその養子となっていた)の家系が旗本として存続した。 『廃絶録』に伝えられるところでは、氏重は秘蔵の黒い馬で鷹狩に出掛けた際に落馬して死んだため、家臣が主君の敵として馬を槍で突き殺したという話が世間に流布したことや、末期養子が認められなかったことが改易の原因とされている。