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内親王

(ひめみこ)姫宮(ひめみや)などがある。 また古来から、第一皇女を女一宮(おんないちみや)、その順に女二宮、女三宮と称す。 明治時代に入り、皇室典範成案が起草されるにあたり、その第35条にて従来の皇女に留まらず、親王妃にも内親王、王妃を女王と規定する条文の策定が検討された。しかし、有栖川宮熾仁親王が

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和宮親子内親王

天皇の第8皇女。御称号は和宮(かずのみや)。江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室(御台所)。家茂死後には落飾し、静寛院(せいかんいん)の院号宣下を受け、静寛院宮(せいかんいんのみや)と名乗った。 「和宮」(かずのみや)は誕生時に賜わった幼名で、「親子」(ちかこ)は文久元年(1861年)の内親王宣下

昇子内親王

昇子内親王(しょうし(のぼるこ)ないしんのう、建久6年8月13日(1195年9月18日) - 建暦元年11月8日(1211年12月14日))は、鎌倉時代の皇族。東宮守成親王(順徳天皇)の准母皇后、女院。院号は春華門院(しゅんかもんいん)。後鳥羽天皇の第一皇女。中宮九条任子(宜秋門院、摂政関白九条兼実女)の唯一の所生。

佳子内親王

佳子内親王(かこないしんのう、1994年〈平成6年〉12月29日 - )は、日本の皇族。身位は内親王。敬称は殿下。お印はゆうな。勲等は宝冠大綬章。 秋篠宮文仁親王と同妃紀子の第2女子。明仁(第125代天皇・上皇)の孫。徳仁(第126代天皇・今上天皇)の傍系(姪)にあたる。姉に小室眞子(眞子内親王

式子内親王

⇒ しょくしないしんのう(式子内親王)

式子内親王

(1153頃-1201) 鎌倉期の女流歌人。 後白河天皇の第三皇女。 1159年から69年まで賀茂斎院をつとめ, 晩年に出家する。 歌は俊成に師事し, 「古来風体抄」を献ぜられる。 千載集以下の勅撰集に一五五首入集。 家集「式子内親王集」

伊都内親王

暮らしていたらしい。貞観3年(861年)9月19日に薨去。 伊都内親王が、天長10年に死去した母の藤原平子の遺言により山階寺(現在の興福寺)に香灯読経料を寄進した時の願文が伊都内親王願文で、三筆のひとりである橘逸勢によって書かれたものだと伝えられている。末尾の署名、また文中の手形は内親王本人のものだとされている。御物。

体子内親王

『増鏡』第十「老いの波」には、後嵯峨天皇との間に生まれた皇女がおり、その皇女は弘安4年(1281年)夏に薨去したことが語られている。「後堀河院の御むすめにて、神仙門院と聞えし女院の御腹なれば、故院もいとおろかならずかしづき奉らせ給ひけり」とあり、皇女は後嵯峨天皇に鍾愛されていたと記されているが、『増鏡』以外の

氏子内親王

父・淳和天皇の即位にともない、弘仁14年(823年)6月3日に斎宮に卜定され、翌天長元年(824年)8月14日、野宮入り。天長2年(825年)9月、伊勢へ群行したが、同4年(827年)2月26日、病により退下。仁和元年(885年)4月2日、無品のまま死去した。享年は80歳前後であった。

延子内親王

門院と称する。正和6年(1317年)、27歳のとき父・伏見院の崩御により出家し、法名を信正恵と称する。その後の消息は不明で、没年も明らかでない。 安田元久編『鎌倉・室町人名事典』新人物往来社、1990年。 芳賀登他監修『日本女性人名辞典』日本図書センター、1993年。 志村有弘編『天皇皇族歴史伝説大事典』勉誠出版、2008年。

喜子内親王

内親王(鳥羽天皇皇女)と交代する形で、甥近衛天皇の斎宮に卜定された。同年9月19日、初斎院(一本御書所)に入る。同2年(1152年)9月30日、野宮入り。同3年(1153年)9月21日、伊勢へ群行(長奉送使は権中納言藤原忠基)。久寿2年(1155年)7月23日、近衛天皇崩御のため退下。嘉応2年(1

暉子内親王

折半するように裁許した。ところが、伏見上皇は宗尊親王への相続は本人の死によって無効になっていると主張して異議を唱え、正安4年(1302年)になって幕府は前年の判決を破棄して永嘉門院(瑞子女王)の主張を却下して彼女に与えられた所領についても亀山・伏見両院で折半するように裁許した。

脩子内親王

000戸を加えた。このときの詔書は『大日本史』に収録されている。父の死後、藤原道長、彰子の庇護のもとにいるのを潔しとせず、両人の不興を承知のうえで叔父・藤原隆家の屋敷へ移った。その後、長和2年(1013年)1月27日に三条宮に遷御したことが『小右記』に見える。

簡子内親王

簡子内親王(かんしないしんのう、? - 延喜14年4月10日(914年5月7日))は平安時代前期の皇女。光孝天皇の親王時代に第二王女として誕生、母は班子女王。宇多天皇と同腹。 貞観19年(877年)正月3日陽成天皇の即位式に際し褰帳の女王を務め、従四位下に叙せられた。寛平3年(891年)12月29

珍子内親王

珍子内親王(ちんしないしんのう)は、文徳天皇の皇女。母は更衣・紀静子(紀名虎の娘)。同母兄弟に惟喬親王、惟条親王、恬子内親王、述子内親王がいる。 元慶元年(877年)4月24日、無品のまま没した。 [脚注の使い方] ^ a b c 上田正昭ほか監修 2001, p. 1224. ^ a b c 芳賀登ほか監修 1998, p. 706–707

利子内親王

んいん)。法名は真性智。父は守貞親王(後高倉院)、母は持明院基家女・陳子(北白河院)。同母弟に後堀河天皇、同母妹に邦子内親王(安嘉門院)がいる。 嘉禄2年(1226年)11月26日、30歳で内親王宣下を受け、同母弟後堀河天皇の斎宮に卜定。安貞元年(1227年)4月29日左近衛府へ初斎院入り。同年9

君子内親王

君子内親王(くんし(きみこ)ないしんのう)は、宇多天皇の皇女。母は女御・橘義子。賀茂斎院。 寛平4年、内親王宣下。寛平5年(893年)3月14日、斎院に卜定される。同年6月19日、初斎院(宮内省)へ移る。寛平7年(895年)4月16日、野宮(紫野院)へ入る。延喜2年(902年)10月8日、病により斎

能登内親王

二世王として優遇する詔を発した(本来は五世王であるが、天皇の外孫のため格別に二世王(皇孫)として処遇することにした)。なお、その死後に父の光仁天皇も俄かに病気がちとなり、同年4月に譲位、12月に崩御した。 ^ 『続日本紀』天応元年(781)2月17日条 ^ 『続日本紀』宝亀元年(770)11月6日条

暲子内親王

されて現地の武士団による反平氏蜂起が促されていった。以仁王が発した平家追討の令旨を各地に伝達したとされる源行家は八条院の蔵人であり、また別の八条院荘官も源頼朝と連絡を取っていた。また、池大納言平頼盛(清盛の異母弟だが、仲が良くなく、独立行動が目立つ)も八条院乳母子を妻として女院の官人となっていた

敏子内親王

敏子内親王(びんし/としこないしんのう)は、醍醐天皇の皇女。母は藤原鮮子。または、源周子。延喜11年(911年)11月28日、内親王となる。無品であった。 [脚注の使い方] ^ 『本朝皇胤紹運録』。 ^ 『皇胤系図』。 ^ 『一代要記』醍醐天皇皇女。 ^ 『敏子内親王』 - コトバンク