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咄咄

[とつとつ]
※一※ (副)
(1)舌うちをするさま。
「之を讃美せざるは, ~日本人の本色にあらず/日本風景論(重昂)」
(2)怒ったり, おどろいたりするさま。
「~, 何等の物乎(モノカ), と先づ驚かさるる異形の屏風巌/金色夜叉(紅葉)」
※二※ (形動タリ)
驚いて嘆声を発するさま。 また, 叱咤(シツタ)したり舌打ちしたりするさま。
「舎利弗(シヤリホツ), 一音をいだして~と叱し給ふに/太平記24」
<i>~人に逼(セマ)る</i>
〔世説新語(排調)〕
詩文や書画などの技芸がたいそう優れているのに驚嘆してほめる語。
「神秘の気とつとつとして人に迫ること覚ゆ/囚はれたる文芸(抱月)」

Пов'язані слова

小咄

(1)短くおもしろい話。 ちょっとした気の利いた話。 (2)落とし話の近代に入っての呼称。 単行本としては1917年(大正6)刊「小咄十種」が嚆矢。 (3)簡単な世間話。 ちょっとした話。 「堺よりの魚荷ども夜の明け方に~してぞ通りける/落葉集」

夜咄

(1)夜, 話をすること。 また, その話。 夜話(ヤワ)。 (2)午後六時ごろから開かれる茶の会。 夜話の茶事。

咄嗟

〔「咄」は舌打ちをしてしかること, 「嗟」は嘆息の意〕 きわめて短い時間。 あっという間。 一瞬。 「~の間の出来事だった」「~の場合に役に立つ」

骨咄葉護

骨咄葉護(呉音:こちとちようこ、漢音:こつとつようこ、拼音:Gŭduō yèhù、? - 742年)は、東突厥第二可汗国期の可汗。姓は阿史那氏、名は不明。骨咄葉護(クトゥ・ヤブグ)というのは称号・官職名である。 開元22年(734年)、毘伽可汗(ビルゲ・カガン)が大臣の梅録啜(ブイルク・チュル)に毒

咄陸可汗

咄陸可汗(Türük qaγan、漢音:とつりくかがん、拼音:Duōlù kĕhàn、? - 634年)は、西突厥の可汗。莫賀設の子。咄陸可汗(テュルク・カガン)というのは称号で、姓は阿史那氏、名は泥孰(でいしゅく)という。大渡可汗(たいとかがん)とも称した。

加藤咄堂

佐藤拓司『「雄弁学」を学ぶ』DTP出版、2013年 『死生観 史的諸相と武士道の立場』書肆心水、2006年 洪自誠『菜根譚 味読精読前集 処世交際の道』書肆心水、2006年 『菜根譚 味読精読後集 閑居田園の楽』同上 『味読精読 十七条憲法』同、2009年 『維摩経入門釈義』同、2016年 大日本雄弁会講談社 漢学 武士道

拓跋窟咄

拓跋 窟咄(たくばつ くつとつ、生年不詳 - 386年)は、代の王族。甥にあたる北魏の道武帝と対抗した。 拓跋什翼犍の子として生まれた。拓跋什翼犍の死後、前秦の苻洛は窟咄が代の王族中で年長であるため、長安に移させた。苻堅は窟咄を礼遇し、書学を学ばせた。淝水の戦いの後の前秦の混乱により、窟咄

雨柳堂夢咄

"猫の日の前日、2月21日に発売しました。(猫の日関係ない) 文庫版『 雨柳堂夢咄 其ノ十三』朝日新聞出版。よろしくお願いいたします。 私にとってこれが最後の漫画文庫になると思うので、なにとぞなにとぞ。なぜ最後かと言いますと→". X(旧Twitter)より2023年7月19日閲覧。 ^ “小説 雨柳堂夢咄”. 朝日新聞出版

阿史那骨咄禄

文明元年(684年)、阿史那骨咄禄は朔州を寇略し、人吏を殺掠した。唐の武則天は詔で左武威衛大将軍の程務挺を単于道安撫大使とし、これに備える。 垂拱2年(686年)、阿史那骨咄禄はまた朔州・代州などの州を寇略した。唐は左玉鈐衛中郎将の淳于処平を陽曲道総管とし、副将中郎将の蒲英

乙毘咄陸可汗

Kānā)の子である薄布特勤を迎えて、乙毘沙鉢羅葉護可汗(イルビ・イシュバラ・ヤブグ・カガン)とした。 貞観15年(641年)、唐の太宗は左領軍将軍の張大師に命じて乙毘沙鉢羅葉護可汗に鼓纛を賜わせた。一方、この頃の西突厥では、乙毘沙鉢羅葉護可汗と乙毘咄陸可汗が頻繁に攻撃し合っていたので、太宗は乙毘咄陸可汗が遣使を送って来た時に、お互い

合骨咄禄毘伽可汗

成功可汗は源休を許して釈放すると、散支将軍の康赤心らを源休に随わせて唐に入朝させた。 貞元3年(787年)8月、武義成功可汗は首領の墨啜達干および多覧葛の将軍の合闕達干(アルプ・キョル・タルカン)らを唐へ遣わして方物を貢納させ、和親を請うついでに求婚をさせた。徳宗はこれを許可し、咸安公主を嫁がせることにした。

莫賀咄侯屈利俟毘可汗

莫賀咄侯屈利俟毘可汗(Baγatur külüg sibi qaγan、漢音:ばくかとつこうくつりしひかがん、拼音:Mòhèduōhóuqūlìsìpí kĕhàn、? - 630年)は、西突厥の可汗。統葉護可汗の伯父。莫賀咄侯屈利俟毘可汗というのは可汗号で、姓は阿史那氏、名は不明。莫賀咄

ひぐらしのなく頃に 語咄し編

この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています(詳細)。 ポータル 文学 『ひぐらしのなく頃に 語咄し編』(ひぐらしのなくころに かたりばなしへん)は、07th Expansionの同人ゲーム『ひぐらしのなく頃に』を題材にした文学賞『ひぐらしのなく

御伽衆

御伽衆(おとぎしゅう、御迦衆)は、室町時代後期から江戸時代初期にかけて、将軍や大名の側近に侍して相手をする職名である。雑談に応じたり、自己の経験談、書物の講釈などをした。御咄衆(おはなししゆう)、相伴衆(そうばんしゅう)などの別称もあるが、江戸時代になると談判衆(だんぱんしゅう)、安西衆(あんざいしゅう)とも呼ばれた。

延広真治

『落語・怪談咄集』(新日本古典文学大系・明治編、岩波書店 2006年) 『江戸見立本の研究』小林ふみ子、鹿倉秀典,広部俊也,松田高行,山本陽史,和田博通共編著 汲古書院 2006 『三人吉三廓初買』(歌舞伎オン・ステージ、白水社、2008年)、ISBN 456003284X 『講談・人情咄

利休道歌

ゅ)」ともいって、千利休の教えをわかりやすく、覚えやすいように、和歌の形にしたもの。 百首と言っても実際に100あるものそうでないものが存在する。 咄々斎の反古襖に書かれたものが有名。 もともとは武野紹鴎のものがはじめで片桐石州の石州百首等が存在する。 一例 その道に入らむと思ふ心こそ我身ながらの師匠なりけれ

立川三光

立川三光(生没年不詳、一説には明治5年没) 出生地、本名、前名などは不明。1839年11月に近衛経熙の御前で噺を演じ経熙から出された謎々巧みに解き好評へを得たと言われる。1840年の「浪花諸芸玉づくし」に「咄・即席の三光」とある。1853年の見立番付には三光で見え光柳、一光、木寿、歌柳、南光の名が見え一派を形成したこと

喜久亭寿暁

(生没年不詳)本名は道具屋 万吉のちに矢野 治助。号を青陽舎。 初め若松町に住み道具屋万吉、後に深川の佐賀町の家主を勤め、矢野治助と改名した。 咄家としては初代喜久亭寿楽の門人で1808年4月17日には寿楽、初代三笑亭可楽、初代三遊亭圓生の助力で東両国の柏屋で咄の会が催されている。

古今亭志ん生 (初代)

は既に「古金亭志ん生」で名乗っており、弘化期には「新生」、嘉永期では「真生」を名乗ることもあった。また「しん生」と表記していた事もあったという。 人情咄を得意とした、得意演目には「お初徳兵衛浮き名の桟橋」「お富与三郎」「小猿七之助」などがありいずれも劇化され8代目市川團十郎が演じ評判になった。「九