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宇都宮義綱

りとなった。その後、秀吉から「朝鮮での戦功次第では再興を許す」との言を受け、宇都宮氏を再興すべく慶長の役にも参陣したが、秀吉の死により再興はかなわなかった。諸国を流浪の末に江戸浅草の石浜で病死した。 義綱は、成人したのちの寛永年間に召しだされ、水戸藩家臣となり、高家格百人扶持を賜った。家督は隆綱が継ぎ、1

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宇都宮忠綱

水の泡にしてしまった。大永の内訌や宇都宮尚綱の代に起こった天文の内訌が、戦国時代後期の宇都宮広綱や宇都宮国綱の代に悪い影響を与えてしまっている。 尊大不遜な人物だったといわれている。 [脚注の使い方] ^ 益子系図による。ただし、益子勝清の生年が1504年であり、忠綱が没した時、勝清は24歳であり、

宇都宮尚綱

天文18年9月17日(1549年10月7日))は、戦国時代の下野国の大名。宇都宮氏20代当主。宇都宮興綱の子。結城政朝の娘を妻とした。初名は俊綱。 初め、僧となるために宇都宮氏ゆかりの慈心院(宇都宮二荒山神社の神宮寺)に入っていた。天文年間初めに宇都宮興綱が芳賀高経によって幽閉された後に還俗してその家督を継いだ。この頃になると宿老・壬

宇都宮成綱

起こった大きな内訌で、最終的には宇都宮錯乱にまで発展した。内訌が勃発した背景には、永正3年(1506年)に古河公方・足利政氏とその子・足利高基が政治方針の違いによって対立し、高基の妻・瑞雲院の父である宇都宮成綱の元へ逃れており、宇都宮氏がこの公方家の争いで重要な位置を占めていた事があった。

宇都宮満綱

期は分かっていないが、やがては元服し、第2代鎌倉公方足利氏満より偏諱の授与を受けて満綱と名乗る。家督継承時に勃発した小山義政の乱の後、下野国守護職は結城氏のものとなっていたが、1399年には、前年に就任したばかりの第3代鎌倉公方足利満兼(氏満の子)から結城氏や小山氏などとともに関東八屋形に任じられて

宇都宮国綱

^ 神宮文庫に所収の『下野国檀那之事』を作成した佐八氏は下野国を拠点としていた御師で毎年のように伊勢と下野を往復して伊勢神宮と下野の武家との連絡にあたっていた。宇都宮氏は佐八氏にとっても重要な檀那でその動向に深い関心を寄せていたとみられている。また、新しい領主で

宇都宮朝綱

宇都宮 朝綱(うつのみや ともつな)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。鳥羽院武者所、白河院北面武士。藤原姓宇都宮氏3代当主。宇都宮三郎朝綱。藤原宗綱の子。 大番役で上洛し鳥羽院武者所、後白河院北面を務め、左衛門尉に任官される。この間、京女の醍醐局を室としその間に嫡男・業綱が生まれる。

宇都宮業綱

養子として入嗣し、宇都宮支族としての塩谷氏の祖となった。なお、子にも同名の「業綱」がいる。 文治5年7月19日(1189年9月8日)には、奥州合戦に発向する大手軍に父・朝綱と共に参加する。吾妻鏡の同年7月25日(9月14日)の記述によると、この時既に子の頼綱は小山政光の猶子に出されている。その3年後

宇都宮等綱

^ 『満済准后日記』応永30年9月4日条の紙背文書によれば、詳細は欠字によって不明だが、芳賀氏が「言語道断」の振る舞いをしたと記されている。時期的に芳賀氏の言語道断な行いが等綱の父・持綱の死に関わることであったと推定される(杉山、2012年、P169-171)。 ^

宇都宮頼綱

りの身と裁定されてしまう。これは、征夷大将軍でもなかった源頼朝が、名目上では自身のみの采配では配下への扶持等を決裁できなかった時期に、朝廷の決裁を仰がず頼朝が単独で部下の所領配分を行ってしまったために起きた騒動であり、頼朝はこの件を大変憂慮したと云われている。鎌倉の勢力と行動を共にしていた頼綱ら関

宇都宮興綱

説を裏付けるものとして1524年に古河公方足利高基から上総武田氏一族の長南三河守に充てた書状に「宇都宮事、名代若輩故、しかゞゝ共無之様候之間」と記され、当時の当主であった忠綱に代わって“若輩の名代(当主代行)”が擁立されたことが判明する。忠綱が当主を追放されて以降、興綱以外の人物が擁立された事実を示

宇都宮泰綱

1253年2月9日(建長5年1月3日)- 奥州が宗尊親王に椀飯を沙汰し、泰綱は御行騰を献じる。 1253年2月27日(建長5年1月21日)- 宗尊親王が鶴岡八幡宮に参詣する。泰綱、これに御後の布衣として供奉する。 1254年1月28日(建長6年1月1日)- 相州が宗尊親王に椀飯

宇都宮公綱

きんつな)は鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。宇都宮氏第九代当主。父は宇都宮貞綱。母は長井時秀の娘か。子に宇都宮氏綱。名将・楠木正成に坂東一の弓取りと評され恐れられるほどの武勇を誇ったといわれている。 楠木正成との戦いは、宇都宮氏を中心とした東国武士の武勇を示すものとして名高い。

宇都宮貞綱

時宗の死後は北条貞時に仕えて嘉元3年(1305年)、嘉元の乱では貞時の命を受けて北条宗方誅殺に協力した。 正和元年(1312年)、亡母の13回忌に全国的にも珍しい巨大鉄製塔婆を奉納した(宇都宮市清巌寺蔵:国の重要文化財)と言われている。 正和5年(1316年)7月25日、51歳にて死去した。法名は蓮昇、法号は興禅寺。

宇都宮広綱

になっている。この間も壬生氏による激しい侵攻が続いており、祖母井城、八ツ木城などが落とされている。その後、高定の尽力によって勢力を徐々に盛り返し、外交手腕によって北条氏康を味方につけ、弘治3年(1557年)、氏康の命で広綱・高定を支援するために佐竹義昭が5000騎の兵を連れて下野に出陣し、飛山城に在

宇都宮明綱

父の等綱が足利成氏と不仲で宇都宮城を追われ、奥州において出家・隠棲したので後を継いだ。外交方針を転換し成氏方に鞍替えし、宇都宮家の再興に腐心したが、1463年、21歳で没した。子がなかったので、等綱の養子の正綱が後継になった。 [脚注の使い方] ^ 但し、近年等綱の二男、明綱の弟とする説も提唱されている。

宇都宮家綱

が応永30年(1423年)に、足利持氏の謀略により宇都宮支族である塩谷教綱に殺害された後、持氏の後見を受けて宇都宮の家督を継いだとされている。もし、これが事実であれば第14代宇都宮家当主となるが、裏付ける資料が少なく確証がない事もあって、現在は歴代の宇都宮当主には数えられていない。その後、持氏が

宇都宮隆綱

元禄13年(1700年))は、下野の戦国大名宇都宮氏の嫡流の子孫で、水戸藩家老。宇都宮義綱の子。室は徳川頼房の十二女、梅子(浄雲院)。子に宇都宮宏綱。弥三郎。官位は従五位下下野守。 取次役として1,000石を賜り、のちに家老、城代となる。元禄3年(1690年)10月、家督を子の宏綱に譲り隠居する。元禄13年、74歳で没する。

宇都宮基綱

^ 江田郁夫 「総論 下野宇都宮氏」(所収:江田郁夫 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第四巻 下野宇都宮氏』(戎光祥出版、2011年)P.13)。この一字拝領は鎌倉公方との良好な関係、および公方から相応の家格を認められていたことの徴証と捉えることができる(江田、同前)。 表示 編集 表示 編集

宇都宮豊綱

当時の伊予国内では道後方面を支配する守護の河野氏、宇和郡の西園寺氏に挟まれる位置にあり、国外からも土佐国の一条氏、豊後国の大友氏、中国地方の大内氏、後に毛利氏といった諸勢力が伊予への大きな関わりを持っていた。 西園寺氏との戦いでは、西園寺実充の子・公高を討ち取る武勇を見せたという。その後、姻戚関係にあった一条氏と結ん