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Деталі слова

守貞親王

太上法皇。 高倉天皇の第二皇子であり、母は坊門信隆の女・殖子(七条院)。安徳天皇は異母兄、後鳥羽天皇は同母弟に当たる。初め持明院宮(じみょういんの みや)を号し、出家した後は行助入道親王(ぎょうじょ にゅうどう しんのう)を名乗ったが、子の後堀河天皇が即位すると、治天の君として異例の太上

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恒貞親王

に際し、嵯峨上皇の叡慮により立太子。承和5年(838年)紫宸殿において元服するが、天皇に拝謁する際に礼儀を備えており、紫宸殿を降りて拝舞する様子も雅やかで麗しかったという。その後、淳和上皇や恒貞親王は権力闘争に巻き込まれる事を憂慮して度々皇太子の辞退を申し入れたものの、嵯峨上皇や仁明天皇に慰留され

敦貞親王

万寿元年(1024年)高陽院競馬の左方の念人(勝負事に際して競技者の応援や世話をする役)となったが、関白・藤原頼通が聞いたことがない親王であるとして、念人の中から敦貞親王を除こうとする。大外記・清原頼隆が三条院の親王(実は敦明親王の子)であると述べるも、童親王であることを理由に頼通は念人

貞純親王

告文に「先人新発其先経基其先元平親王其先陽成天皇其先清和天皇」と明記してある事を根拠としたもの。しかしこの文書は写本であり、告文の裏面に校正したと但書きがあることから信憑性が疑われている。また、告文の内容は河内石川庄の相続順序に過ぎないとする説や、12世紀はじめに書かれた「大鏡」が武家源氏を清和天

貞保親王

古部春近(またはその祖父・戸部吉延)に習った笛、父の清和天皇から伝えられた琵琶のほか、和琴・尺八などをよくした。笛は管絃長者・天下無比の名手と称されるほどであり、「衆芸の人」で、肩を並べる者なしと評された。中でも横笛を本として、穴貴という高名な笛を吹き、その音色は上霧(うわきり)

守邦親王

24年9か月と在職期間が最長であった。また、親王の身位を持ちながら、生涯京都の地に足を踏み入れることがなかったと考えられている。8代将軍久明親王の子。 8代将軍久明親王と、7代将軍惟康親王の娘の間の子として生れる。 延慶元年(1308年)8月、父に代わってわずか8歳で征夷大将軍に就任した。同年9月

貞子内親王

貞子内親王(ていしないしんのう)は、江戸時代の皇族、公家。摂政・二条康道の北政所。幼名は逸宮。 元和9年(1623年)11月24日に祝言を挙げた。媒酌人は太閤・鷹司信房夫妻。 延宝3年(1675年)薨去。享年70。二尊院に葬られた。戒名は貞了院宮。 父:後陽成天皇 母:近衛前子 兄弟 同母兄弟

守澄法親王

守澄法親王(しゅちょうほっしんのう、寛永11年閏7月11日(1634年9月3日) - 延宝8年5月16日(1680年6月12日))は、江戸時代の皇族。初代輪王寺宮門跡(日光門跡とも呼ばれる)。東叡山(寛永寺)・日光山輪王寺貫主。天台座主。朝廷より二品・一身阿闍梨・一品・護持・牛車・検封阿闍梨などの宣下を受ける。号は本照院。

守覚法親王

性入道親王が没した跡を継いで仁和寺御室(門跡)に就任した。高倉天皇の第一皇子・言仁親王(後の安徳天皇)誕生の際には出産の祈祷を行っている。小野流・広沢流両流の法を受けた。建仁2年(1202年)、仁和寺喜多院で死去。 和歌に優れ、家集『守覚法親王集』『北院御室御集』がある。また、仏教関係の著書には『

王貞

となった。後に秀才に挙げられて、県尉に任じられたが、勤めを好まず、病と称して家にこもった。 煬帝が即位すると、江都に駐屯する斉王楊暕に召し出されて、客礼で待遇された。『文集』を編んで楊暕に献上して賞賛を受けた。また「江都賦」を献上して10万貫の銭を賜った。まもなく病が重くなって郷里に帰り、家で死去した。

堀親貞

妻には死別され、その間に生まれた7人の子女全てに先立たれた。このため、親常を養嗣子に迎えた。貞享2年(1685年)11月18日、越後高田城の在番中に瘧にかかって死去した。享年46。跡を親常が継いだ。墓所は東京都渋谷区広尾の祥雲寺。 父母 堀親昌(父) 浄心院 - 三条西実条の娘(母) 正室、継室 貞安院

親王

(1)天皇の子供を敬っていう語。 皇子・皇女。 (2)(父である神に対して)キリストを敬っていう語。 「神の~」「救いの~」 (3)親王。 親王宣下を受けた天皇の皇子。 「仁和のみかど, ~におましましける時に/古今(春上)」 (4)他人を敬ってその子をいう語。 「主を殺さぬ事, ~の君ぞしらせ給へる/読本・春雨(捨石丸)」

親王

〔「しんおう」の連声〕 皇族男子の身位の一。 律令制では, 天皇の兄弟・皇子をいったが, 淳仁天皇(在位 758-764)以後は親王宣下のあったもののみに限られた。 旧皇室典範では, 皇子から皇玄孫にわたる皇族男子をいった。 現制度では, 嫡出の皇男子および嫡男系嫡出の皇孫の男子をいう。 ⇔ 内親王

伏見宮貞常親王

伏見宮貞常親王(ふしみのみや さだつねしんのう)は、室町時代の皇族。二品式部卿。世襲親王家の伏見宮第4代当主。 貞成親王の第二王子。母は庭田経有(宇多源氏)の女の庭田幸子(敷政門院)。後花園天皇(現在の皇室の祖)は兄、称光天皇は三従兄にあたる。御息所は庭田重有の女の庭田盈子。後花園天皇の猶子。 妃:庭田盈子

伏見宮貞愛親王

伏見宮第22代および第24代当主。 幼名は敦宮。親王は初め妙法院を相続したのち孝明天皇の養子となるが、伏見宮貞教親王薨去のため、1862年(文久2年)旧暦11月に還俗し家督を継ぐ。1864年(元治元年)いったん伏見宮を離れ家督を父宮の邦家親王に渡す。そして1872年(明治5年)、再度伏見宮を継承し第24代当主となる。

伏見宮貞成親王

の断絶とともに伏見宮領に組み込まれた)。 応永32年(1425年)2月、称光天皇の皇太弟小川宮が没すると、貞成はかねてから病弱で継嗣もなかった天皇の皇儲の候補となり、4月16日には後小松院の猶子として親王宣下を受けた。しかし、このことは天皇の逆鱗に触れることとなり、貞成はわずか3カ月後の閏6月3日に

伏見宮貞敬親王

東本願寺光浄宝如室 第7王子:某王(苞宮、1816) 第9王女:宗諄女王(1816-1891) - 霊鑑寺門跡 第10王女:政子女王(1817-?) - 錦織寺宅慈養子、高田瑞泉寺室 第11王女:隆子女王(1818-1860) 第8王子:尊常法親王(1818-1836) - 一乗院門跡 第9王子:某王(和宮、1819)

伏見宮貞致親王

奉養育也、定次者定元之男定子の弟也。(「伏見宮実録」) 貞致親王依讒言自承応二年到于萬治三年御沈淪、七年之間、母儀ノ妹ナル者依為明珍妻、於于明珍宅奉養育云々、明珍者理忠氏也。(「伏見宮実録」) 承応元年貞致親王御童形形廿一歳ニシテ自丹州御帰洛、是貞清親王ノ依御招也、到于茲於于定次ノ宅奉養

伏見宮貞敦親王

第四王子:任助法親王(1525-1584) - 仁和寺門跡 第一王女:位子女王(1529-1616) - 二条晴良室 第五王子:応胤入道親王(1531-1598) - 梶井円融房、天台座主、のち還俗 生母未詳 第二王女:恵彭女王 - 安禅寺 第三王女:尊智女王(?-1602) - 中宮寺住持 第四王女:周恭女王 - 総持院 四親王家御系譜

伏見宮貞清親王

伏見宮貞清親王(ふしみのみや さだきよしんのう)は、江戸時代初期の皇族。世襲親王家の伏見宮第10代当主。伏見宮第9代当主邦房親王第一王子。後陽成天皇の猶子。妃に宇喜多秀家の女で前田利長の養女、おなぐの方(おなくの方)。 慶長10年(1605年)12月24日に元服し、二品兵部卿に任ぜられる。 王子女 御息所:宇喜多秀家の娘