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尼子元知

「元」の字)を与えられて元知と名乗る。妻との間に子がなかったので、甥(妹の子)の宍道孫三郎就易を養子とした。慶長元年(1596年)石見銀山御番所の支配頭となった。 この番所が石見国那賀郡久佐にあったので、村人は元知を「久佐の将監様」と呼び、元知自身も久佐将監と名のるようになった。慶長5年(1600

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尼川元気

尼川 元気(あまかわ げんき、1984年11月27日 - )は、日本のベーシスト、ミュージシャン。大阪府松原市出身。flumpool、Cho_Nansのメンバーとして活動している。 2002年、幼稚園からの幼馴染みの山村隆太、阪井一生らとの3人でアコースティックギター弾き語りユニットを結成。2007

尼子氏

して続き、維新後士族。通字は「久」(ひさ)。 尼子氏は宇多源氏佐々木氏の流れを汲む京極氏の分家で、京極尼子家とも呼ばれる。家紋の平四つ目結(ひらよつめゆい)も、京極氏のそれである。南北朝時代の婆娑羅大名として初期の室町幕府で影響力を持った佐々木高氏(道誉)の孫・高久が、近江国甲良荘尼子郷(滋賀県甲

尼子晴久

尼子 晴久(あまご はるひさ)は、戦国時代、出雲国の戦国大名、出雲・隠岐・備前・備中・備後・美作・因幡・伯耆の守護大名。尼子経久の嫡孫に当たる。山陰山陽十一カ国のうち、八カ国の守護を兼任し、当時の中国地方随一の大大名となった。 大内、毛利の両家と度々戦火を交え、尼子家の最盛期を創出した。

尼子経久

尼子 経久(あまご つねひさ)は、戦国時代 (日本)の武将・大名。出雲守護代、のち出雲守護。十一ヶ国太守と言われる。 長禄2年(1458年)11月20日、出雲守護代・尼子清定の嫡男として出雲国に生まれる。幼名は又四郎。 文明6年(1474年)、人質として出雲・飛騨・隠岐・近江守護を務める主君・京極

尼子勝久

弟の氏久、重臣の神西元通らと共に自害した。享年26。 一方、山中幸盛は捕虜となり移送される途中に斬殺された。これにより大名としての尼子氏再興運動は潰えることとなる。 なおその後の再興運動の残党軍は、尼子氏一門格亀井氏を継ぐ亀井茲矩に率いられる形となり、秀吉麾下にて鳥取攻略・朝鮮出兵参陣と軍功を重ね

尼子久幸

に、毛利氏本拠である安芸国吉田郡山城への遠征を翌年に行うと決定した。久幸は経久とともに無謀な計画に反対したが、血気にはやる詮久は聞く耳など持たず、久幸を「臆病野州」(野州とは下野国の別称であり、下野守であった久幸のこと)と罵った。 久幸は胸の内に暗いものを持ちながらも夏の第一次遠征に

尼子十旗

尼子十旗(あまごじっき)は、日本の戦国時代、出雲国を支配した戦国大名尼子氏の本城月山富田城の防衛線である出雲国内の主要な10の支城のことである。また、月山富田城と尼子十旗の間の繋ぎとして築かれた主要な10の城砦である尼子十砦(あまごじっさい)も併せて解説する。

尼子義久

に包囲された(第二次月山富田城の戦い)。毛利軍は富田城へ総攻撃を開始したが、城の守りは堅く城兵の士気も旺盛で、損害ばかりが増えたため攻撃を中止し兵糧攻めに切り替えた。富田城内では次第に兵糧が欠乏し、士気が衰えるなか尼子氏累代の重臣の亀井氏・河本氏・佐世氏・湯氏・牛尾氏が毛利軍に降伏する。さらに永禄

尼子豊久

橋津川西岸に陣を布き、南条・武田軍と対決することとなる(橋津川の戦い)。豊久は手勢700余騎で敵陣に切り込んでいたが、武田方の矢に胸板を貫かれ落馬し武田の郎党の中原木工允によって討ち取られた。 国久は豊久の戦死を知ると激昂し逆襲に転じ、ついに武田常信は討死、宗勝も敗走した。

尼子持久

尼子 持久(あまご もちひさ、永徳元年(1381年) - 永享9年2月25日(1437年3月31日))は、室町時代の武将。上野介。出雲国守護代で出雲尼子氏の祖。月山富田城主。尼子高久の次男。兄に詮久(のりひさ、京極高詮より偏諱を受ける。近江尼子氏の祖。)。子に清定・山中幸久。四郎左衛門尉、上野介、刑部少輔を称したとされる。

尼子清定

)から3年(1471年)にかけて出雲国大原郡、美保関、伊難波城で争う。 清定は出雲東部での勢力を強め、文明6年(1474年)頃から公用銭の上納を怠るなど(美保関の公用銭5万疋のうち1万疋を5年間免除するよう京極政経と取り決めた)、独立の動きを見せるようになる。文明8年(1476年)出雲能義郡土一揆を

尼子四郎

首席で卒業。同級に富士川游ら。一年研修の後1888年、新設された東京帝国大学医科大学選科・青山内科に入った。しかし1890年、腸チフスに罹って中退。離京して島根県益田市で静養した後、郷里・戸河内村や山口県下松市で開業するが、カリエスに罹患するなどで医院を畳み、再び東京に出る。同郷の富士川游、呉秀三、

尼子倫久

とさせ、それにより義父の元通から知遇を受けた。その後、天下の形勢が定まると尼子三兄弟は解放された。 天正12年(1584年)、室である山内氏が病死すると、田村秀胤の娘を継室にした。毛利氏の客将として、朝鮮出兵・関ヶ原の戦いにも従軍した。その後、倫久は出家し僧と

尼子国久

誕生。永正9年(1512年)頃に室町幕府管領・細川高国の偏諱を受け国久となる。 姓は尼子ではあるものの、千家文書(出雲大社宮司の家系)では「尼子殿御子息吉田の孫四郎殿」と記載されており、出雲吉田荘の吉田氏に養子に入っていたと思われる。吉田氏は宇多源氏佐々木氏の傍系であり、幕府奉公衆の地位を与えられ

尼子就易

尼子 就易(あまご なりやす)/佐々木 就易(ささき なりやす)は、江戸時代初期の長州藩士。尼子氏8代当主。実父は宍道就兼、母は尼子倫久の娘。母方の伯父である尼子氏7代当主・尼子元知の養子となる。はじめは久佐孫三郎と名乗る。 元和4年(1618年)、宍道就兼の子として生まれる。

尼子誠久

中井平蔵兵衛尉という、髭が立派な事を自慢にしている武将がいた。ある日、尼子誠久に呼びつけられると、その髭をなじられ、暴行を受けた。翌日、尼子晴久の前に出仕した中井は、髭を片方だけ剃っており、晴久がそのふざけた態度に大いに怒った。それに対して中井は、誠久に髭の事で叱られたので剃り落す事にしたが、晴久も知っている立派な髭

尼

〔「比丘尼(ビクニ)」の略〕 ※一※ (名) 女性で出家して僧籍に入った者。 あま。 ※二※ (接尾) 出家した女性の名の下に添える語。 「阿仏~」「望東~」

尼

〔梵 ambā(母の意), パーリ語 ammā からか〕 (1)〔仏〕(ア)出家得度して, 正式の仏教修行者となった女性。 比丘尼(ビクニ)。 (イ)なんらかの形で仏門にはいった女性。 (2)キリスト教の修道女。 (3)女をののしっていう語。 あまっこ。 あまっちょ。 (4)肩のあたりで切りそろえた, 中古の尼の髪形。 また, その髪形の少女。 あまそぎ。 「~にそぎたるちごの/枕草子 155」

秋元喬知

8年)には禁裏造営奉行を、白石が発議した正徳金・銀鋳造の総奉行を担当した。 甲斐国谷村藩主時代の秋元氏は、甲斐都留郡における用水堰の開発や郡内織の生産奨励などを行っているが、喬知の時代には河口湖から新倉村(富士吉田市)まで用水を引く新倉掘抜を着工したと言われている。川越藩主としては殖産政策で知られる。