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廃寺

[はいじ]
(1)住職のいない荒れはてた寺。
(2)廃絶した寺。 また, 寺を廃すること。

Пов'язані слова

寺本廃寺

軒瓦と基壇を区画する玉石が検出されている。山王神社の西にあたる伽藍北側の僧房跡は南北20m、東西8mと推定され、軒瓦と根石のほか生活用具の出土遺物が確認されている。また、西南北には門跡が確認されている。 出土遺物では瓦類が多く、平瓦、丸瓦、軒丸瓦、軒平瓦など。軒丸瓦は文様から8形式に、軒平瓦

智福寺 (廃寺)

なっているが、これは智福寺の後身である吉祥院が元和7年に得た寺領180石(百八拾石)の誤りである可能性がある。。 播磨国明石出身の僧。「空与(空與)」は「空誉(空譽)」とも表記される。後藤基次(又兵衛年房)の叔父であるともいう。7歳(数え年、以下同)のとき、十輪寺(兵庫県高砂市)雁高上人のもとで剃

尼寺廃寺跡

門(東大門)の遺構が検出されている。特に塔心礎は巨大な地下式心礎であり、塔心礎としては日本最大級の規模になるとして注目されるとともに、心柱の柱座に添柱孔を伴う点、柱座から耳環などの舎利荘厳具が出土した点でも貴重な例になる。南廃寺(尼寺南廃寺)は調査が限られているが、南向きの法隆寺式伽藍配置で、般若院境内で金堂・塔の遺構が検出されている。

興山寺 (廃寺)

天正18年(1590年)、木食応其が豊臣秀吉の帰依を受けて開基した。その際、秀吉が後陽成天皇に奏請し「興山寺」の勅額が掲げられて、国家安泰などを祈る勅願寺となった。応其は客僧であったが、当寺の第2世となった勢誉は行人方で、青巌寺が学侶方の中心寺院となったことと相まって行人方の中心寺院となり、官寺ともよばれた。紀伊続風土記

寺町廃寺跡

た素弁蓮華文の軒丸瓦は百済様式とされる。出土瓦の様相からは、7世紀中葉(または7世紀末葉)の創建で9世紀初頭頃に廃絶したと推定される。寺町廃寺の瓦を焼成した窯跡は、北西約1.5キロメートルの山中にある大当瓦窯跡(三次市和知町)であることが判明しており、寺院跡と合わせて国の史跡に指定されている。 なお南西約1

明科廃寺

恵器、灰釉陶器、白鳳時代から平安時代にかけての素弁八葉蓮華文瓦、鐙瓦、軒瓦、布目瓦、礫敷などがあり、特に鴟尾、鬼瓦からは堂舎の壮大さがうかがえ、また推定2メートルに及ぶ瓦塔片の発見は特筆される。 一志茂樹によれば、古代東山道の要衝としての瓦塔を安置した堂舎跡とも推定され、古代安曇郡の郡寺、前科郷の郷寺の有力な比定地である。

正家廃寺

平安時代の元慶5年(881年)に天台宗の円珍の弟子覚源が観音堂を建立し直した船岡山 長興教寺という寺院がかつて存在していたが、応仁の乱の際に兵火で亡滅したという伝説があり「船岡山 長興教寺」以前に存在していた寺院ではないかという説もある。 岐阜県恵那市長島町正家字寺平 [脚注の使い方] ^ 平成13年8月13日文部科学省告示138号

上総大寺廃寺

元禄年間(1688-1704年)に「塔の越」と呼ばれる場所から露盤が掘り出されており、地元では「塔の沓石」「護摩壇石」などと呼ばれていたという。この露盤は、層塔の最上部相輪の下に置かれる四角い盤で、根頂部の防水の役割を果たしている。石製で、各地で数例が知られているが、その中でも古いものである。上総大寺廃寺に木製の層

三栖廃寺跡

ミニチュア炊飯具セット(かまど・釜・鍋)、小型壺、須恵器、土師器等が出土している。特に一号墳玄室に副葬されているミニチュア炊飯具は和歌山県下でも数少なく、さらに南限例でもあるので発掘調査の際も注目されていた。ミニチュア炊飯具セットは渡来人系氏族の古墳の特徴であり、日

北野廃寺跡

である。しかし、講堂跡の中心線は塔・金堂の中心を結ぶ伽藍中軸線よりも一間分西へずれている。 出土した遺物は瓦・瓦塔・塼仏・磬形垂飾・鉄釘などと、須恵器・灰釉陶器・彩釉陶器などがある。鐙瓦の瓦当紋はこの地域でしか見られない高句麗の影響を強く受けたものであり、畿内とは別の経路で造寺技術が移入された可能

結城廃寺跡

溝跡から「法成寺」のヘラ書きのある丸瓦が出土した。『将門記』に「結城郡法城寺」が登場することと合わせ、結城廃寺の寺号は「法成寺」であったことがわかる。 棰先瓦(たるきさきがわら) - 屋根瓦ではなく、軒下の垂木(棰)の先端に付した瓦で、東日本では初の出土例である。 塑造仏像断片 - 衣文を表した断片が伽藍南東から、螺髪、右脚部、蓮

平川廃寺跡

堂の中心建物、東側に付属建物を配置していたと見られる。 塔の基壇は直径20cm前後の河原石を立て並べた上に平瓦を横積みにした瓦積基壇で、1辺が17.2mあった。 金堂の基壇は、塔と同じ瓦積基壇で東西が22.5m、南北が17.2mあった。基壇の南辺は、奈良時代末から平安時代初期に南側へ2

夏見廃寺跡

掘立柱塀(復元) 塑像仏(螺髪・足指先) 夏見廃寺展示館展示(他画像も同様)。 大型多尊塼仏 須弥壇塼仏 方形三尊塼仏A 方形三尊塼仏B・独尊塼仏A 独尊塼仏B 連坐塼仏・独尊塼仏C 檫管 金堂創建瓦-1 金堂創建瓦-2 塔・講堂創建瓦 補修用瓦 須恵器坏・土師器皿 円面硯 異形土師器壺 夏見廃寺跡 - 1990年(平成2年)3月8日指定。

関戸廃寺跡

釈迦の遺骨(舎利)を納めた塔。寺域西寄り、金堂の南側に位置し、金堂に次いで建立されている。基壇は一辺約12メートルを測る。基壇化粧は石積基壇。塔心礎の周囲に焼痕が認められることから、火災で焼失したと推測される。 講堂 経典の講義・教説などを行う建物。寺域東寄り、塔の東側で東西6間以上・南北4間の大型建物が検

太田廃寺跡

伽藍配置は詳らかでないが、塔心礎が発見された地点のほか土壇状の高まりが2箇所あったといい、法隆寺式伽藍配置と想定される。塔心礎は三角形の大盤石であったといい、上面に円形の柱穴孔が、その中央に方形の舎利孔が穿たれ、舎利容器が納置されていた。舎利容器は大理石製石櫃・銅鋺・銀製容器・金製容器が

横見廃寺跡

寺域からの出土品としては、瓦のほか、須恵器、土師器、金銅製飾金具片、塔相輪破片などがある。軒丸瓦には単弁蓮華文(山田寺式の火炎文、檜隈寺跡出土例と類似)・忍冬唐草文(中宮寺出土例と類似)があり、畿内からの影響が認められる。 なお、寺跡の下層からは弥生時代終末期(3世紀前半頃)の多量の土器類が検出されている。 横見廃寺跡

片山廃寺跡

片山廃寺跡(かたやまはいじあと)は、静岡県静岡市駿河区大谷字片山にある古代寺院跡。国の史跡に指定されている。 駿河国国分寺の遺構に比定する説が有力であるが、ほかに地方豪族の氏寺の遺構とする説がある。 静岡市市街地の南東方、有度山西麓にある古代寺院跡である。8世紀後半から10世紀前半(奈良時代後半から

駒帰廃寺跡

が検出されている。基壇上面には建物の焼失を示す厚さ約10センチメートルの焼土が認められる。 出土品としては、軒丸瓦(五葉複弁蓮華文)・軒平瓦(葡萄唐草文・均正唐草文・重弧文)・仏片・塑像片・蝶番・土器・小皿がある。建立は奈良時代早期頃で、平安時代頃に焼失したと推測される。 東方建物

山王廃寺跡

1921年(大正10年)に、日枝神社の境内から石製の塔心礎が発見された。その後、石製鴟尾、塔心柱根巻石、塑像、緑釉陶器や大量の瓦などが続々と出土した。 1928年(昭和3年)2月7日に塔跡と思われる範囲が「山王塔阯」の名称で国の史跡に指定され、1953年(昭和28年)11月14日に塔心柱根巻石が「上野国山王廃寺塔心柱根巻石