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松平家忠

松平 家忠(まつだいら いえただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。深溝松平家4代当主。 彼の記した日記(『家忠日記』)は、戦国武将の生活や当時の有力大名を知る上で貴重な史料となっている。 弘治元年(1555年)、深溝松平家3代当主・松平伊忠

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松平家忠 (東条松平家)

松平 家忠(まつだいら いえただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。通称は甚太郎。別名に家次。東条松平家3代当主。三河国東条城主。 松平忠茂の子として誕生した。母は松井忠直の娘(松平康親の妹)。幼名は亀千代。 父・忠茂の戦死に伴い、松平家康に家督相続・所領安堵を受けて仕えたが、生まれたばか

松平家忠 (形原松平家)

その後、主家の松平家と同様今川家に従属し、家忠の弟の左近が竹千代と共に人質になり今川方に送られていたが、永禄3年(1560年)に今川義元が桶狭間の戦いで討ち死にし、今川家が弱体化すると、主家の松平元康(後の徳川家康)と共に形原松平家は今川家より離反したが、その際に左近は処刑されている。しかし、父・家広は周辺の領主との所領争い

松平忠昭 (大給松平家)

府内藩の藩政を確立するため、社寺に所領を寄進してその関係を親密にしたり、商人の力を借りて新田開発を行なうなどしているが、藩営ではなく商人の力を借りているところから、当時の藩の財政基盤の脆弱さを推察することができる。 延宝4年(1676年)3月27日、長男の近

松平忠吉 (桜井松平家)

父:松平家次 母:不詳 室:多劫姫(1553年 - 1618年) - 久松俊勝の娘、のち保科正直正室 長男:松平信吉(1580年 - 1620年) 次男:松平忠頼(1582年 - 1609年) 『寛政重修諸家譜』では子の筆頭の位置に遺跡相続者として松平家広(多劫姫と忠正の子

平松家

した後、元老院議官を経て貴族院の子爵議員に当選して務めた。また河鰭実文・秋月種樹・山内豊誠・正親町公董らと、華族有志の団体で日本最初の政治結社である通款社の発起に参加しているが、これが華族会館の前身となった。 その息子時陽は陸軍騎兵大尉まで昇進した陸軍軍人だった。

松平重忠 (三木家)

しげただ)は、戦国時代から江戸時代初期の武将。父は松平信孝。通称九郎右衛門。 父は、松平広忠を補佐する立場に有りながら、最終的には松平宗家と敵対した松平信孝で、父の信孝が天文17年(1548年)に松平広忠と戦って討死するが、重忠が出奔するに至った経緯もあり、許されて成長後に徳川家康に仕えた。

松平忠定

大永4年(1524年)、兄・元心は松平長親の命により深溝城主・大場景紀を滅ぼし深溝城を奪う。その戦功を兄より譲り受けて深溝を領し、深溝松平家を発祥させる。深溝城を奪う際に忠定が大場景紀の家臣・稲吉惣助と謀り、大場景紀を毒殺したという説もある。島原本光寺の説によると、岩津松平家の松平親長の

松平忠質

で誕生。文化9年(1812年)8月27日に旗本・松平忠元(忠考)の養子となる。 文政2年(1819年)閏4月13日、吉田藩邸から養家の五井松平邸に引越す。文政3年(1820年)に養父が没し、9月4日に家督を相続する。天保2年(1831年)7月24日に火消役、天保5年(1834年)9月25日に百人組

松平忠重

された桜井松平家を大名に復帰させた。上総国佐貫藩主、駿河国田中藩主を経て、遠江国掛川藩初代藩主。 慶長6年(1601年)、遠江浜松藩主・松平忠頼の長男として誕生した。 慶長14年(1609年)9月29日、父が従弟の水野忠胤の江戸藩邸に招かれて茶会に参加していた際、同席していた

松平康忠

(1562年)に元服し、三河国宝飯郡小坂井ほか1,810貫文を知行した。康忠の叔父である松平信重や松平近清らも、家康から100貫文ずつを給わって補佐を拝命した。信重は翌年からの三河一向一揆で家康方として討死したものの、近清はのちも康忠を支えて天正16年(1588年)に死去している。

松平忠俔

3代藩主。深溝松平家8代当主。官位は従五位下・主殿頭。 正徳元年(1711年)12月1日、代々島原藩深溝松平家の大老を務めた松平勘解由家の当主・松平次章の四男として誕生(宝永4年(1707年)生まれとの説もある)。はじめ奥平芳喬と名乗る。 本家の島原藩2代藩主・松平忠雄は、実子が早世したため、養子と

松平忠周

がし、苟(いやしく)も東府の目代なり。職に於いて赦さず、速やかに召し捕えて罪を論じ、刑に処さん」と諫言した。この一事がやがて江戸にまで届き、吉宗の聞き及ぶところとなった。吉宗は「余が見る処は、違わざるなり」と満悦した。老中抜擢の端緒であったという。 また、享保7年(1722年)に行われた上方における

松平伊忠

戦で前線に出過ぎたため、退却する武田軍の小山田昌行率いる500騎に、後ろから猛反撃を受けて討死した。享年39。 墓所は深溝松平家の菩提寺・瑞雲山本光寺。法名は「慈光院殿悟渓源了大居士」。伊忠が討死したとされる地(愛知県新城市有海)には、松平伊忠戦死之地の石碑がある。

松平忠昌

)という刀鍛冶を御用鍛冶として保護したらしく、元和9年に鍛えさせ、米山薬師に奉納した太刀が現存する。福井藩には以前、お抱えの刀鍛冶として越前康継がいたが、幕府に招かれて江戸で作刀するようになっていた。忠昌は松代藩主時代からお抱えの山城守国清を引き続き採用し、国清は名刀の数々を生み出している。康継は幕府から「葵紋」を彫るこ

松平忠吉

当初は駿府城の城番だったが、直政の進言により家康より前に大垣方面に進んだとある。 本戦では舅の井伊直政の後見の下、初陣を飾って福島正則と先陣を争い、手傷を負うも島津豊久を討ち取るなどの功を挙げる。合戦翌日に直政が発した戦捷を伝えた書状への9月25日付結城秀康返書には、忠吉自身が高名を働き、その高名は

松平信忠

」のいずれも信忠には備わっていなかったと指摘し、暗愚・強情な人物とされた。このため、家中衆も民・百姓も怖れおののき、松平一門衆や小侍までもが信忠を慕わず、城に出仕しない者まで多く現れた。また謀反の動きも有ったとされ、これは信忠自身が事前に察知して首謀者を手討ちにしたが、この情況を挽回するには至らなかった。

松平親忠

れている。だが後に安祥松平氏から清康・家康らが本家を簒奪したため、親忠が4代当主扱いされたと言われている。 応仁元年(1467年)8月、第一次井田野合戦で品野(瀬戸市品野町)や伊保(豊田市保見町)の軍勢を破る。親忠は戦死者を弔うため、現在の岡崎市鴨田町字向山の地に千人塚を築いた。

松平広忠

現在大樹寺に加え、大林寺・松應寺・法蔵寺・広忠寺と5つの墓所が岡崎市にある。 また死後、慶長16年3月22日従二位大納言の官位を贈られている。「御年譜附尾」は「因大権現宮願」として従三位大納言と記し「御九族記」は正二位権大納言としている。なお、嘉永元年10月19日には、太政大臣正一位に追贈されている。 松平広忠 贈太政大臣正一位宣命(高麗環雑記)

松平忠倶

松平 忠倶(まつだいら ただとも)は、江戸時代前期の大名。遠江国掛川藩の第2代藩主、後に信濃国飯山藩の初代藩主。桜井松平家9代。官位は従五位下・遠江守。 寛永11年(1634年)、掛川藩主・松平忠重の長男として誕生した。 寛永16年(1639年)2月12日、6歳の時に父が死去した。3月3日付けで家