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Словник

Деталі слова

胤裔

[いんえい]
血筋を引いた者。 後裔。 末孫。

Пов'язані слова

裔

子孫。 「源氏の~」

裔

子孫。 後裔(コウエイ)。 血統。 「帝皇の~/日本書紀(允恭訓)」

後裔

子孫。 後胤(コウイン)。

余裔

(1)子孫。 後裔。 末裔。 (2)末流。 末派。

末裔

末の血筋。 子孫。 後裔。 ばつえい。 「源氏の~」

末裔

⇒ まつえい(末裔)

張裔

張 裔(ちょう えい)は、中国後漢末期から三国時代の政治家・武将。字は君嗣。益州蜀郡成都県の人。子は張毣・張郁。 孝廉に推挙されて劉璋に仕え、魚復県令・従事・帳下司馬を歴任した。劉備が益州に侵攻すると徳陽県の陌下で諸葛亮・張飛の軍と戦ったが、敗れて成都に帰還した。その後、降伏の使者として劉備のもとに赴いている。

弓裔

を彼の托鉢の鉢の中に落とした。それをみると「王」と記された象牙の札であった。これが弓裔が一国の王となる野望をいだく契機となった。 当時の新羅は中央政府の統制が失われ、均田制が乱れたところに凶作が続き、各地で豪族たちの反乱が起きるようになった。また有力豪族は自らの勢力圏を事実上の独立国とし、国土を

胤

種 落胤(ご落胤) 千葉氏 - 「胤」を通字とする。

司馬裔

司馬 裔(しば えい、508年 - 572年)は、北魏末から北周にかけての軍人。字は遵胤。本貫は河内郡温県。司馬懿の四弟である司馬馗の末裔にあたる。曾祖父は司馬楚之。祖父は司馬金龍。父は司馬悦。 司馬悦の子として生まれた。幼くして孤児となり、志操かたく、州郡の召しには応じなかった。司徒府参軍事を初

白溶裔

白溶裔、白容裔、白うねり(しろうねり)は、鳥山石燕の妖怪画集『百器徒然袋』にある日本の妖怪。 ぼろい布でできた竜のような姿で描かれ、「容裔」(ようえい)という熟語は「風でものがなびく様子」を示す。石燕による解説文には「古きふきんの化けたるもの」とあり、古い布巾が化けたものとされる。名称は兼好法師の『

大封裔

大 封裔(だい ふうえい)は、渤海国の王子。 崔致遠が著した『謝不許北国居上表』には王子と記されているが、誰の王子なのかは不明である。 897年7月に賀正使として入唐したが、唐は、朝貢の序列において渤海使の席を新羅の下に置いていたため、大封裔は、席次を新羅より上位にすることを要請したが、唐は許可しな

崔胤

れて、従事となった。後に入朝し、考功司(中国語版)、吏部の員外郎(中国語版)へと累遷し、郎中(中国語版)・給事中・中書舎人に転じた。 大順年間に、兵部侍郎・吏部侍郎を歴任し、兵部侍郎同平章事・中書侍郎・判戸部事へと累遷した。 乾寧2年(895年)3月、検校尚書左僕射同平章事・河中尹をもって、河中節

落胤

身分の高い男が正妻以外の女にひそかに生ませた子。 おとしだね。 「将軍の御~」

血胤

同じ血筋をひく子孫。 血裔(ケツエイ)。 血族。

皇胤

天皇の血統。 皇統。 皇裔(コウエイ)。

後胤

子孫。 後裔(コウエイ)。 「桓武天皇九代の~」

余胤

子孫。 後胤。

胤祀

(名不詳):何焯の娘。 胤禩は手習が拙かった為、康熙帝は書道家で学者の何焯を教育指導につけた。そのつながりから、何焯は九子奪嫡において胤禩の党閥に参与していた。 廉親王府の旧址については『京師坊巷志稿』に二箇所について記載がある。一つは75頁「王府大街」の項に引用されている『嘯亭続録』の記述