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高堂

[こうどう]
(1)高い堂塔。 また, 立派な家。
(2)相手を敬って, その家, またはその家人をいう語。

Пов'язані слова

高堂隆

都の督軍が薛悌と論争したとき、薛悌を名前で呼んで怒鳴りつけた。高堂隆は剣の柄に手をかけて督軍を叱り、「昔、魯の定公が侮辱されたとき、仲尼(孔子)は階段を上がってたしなめ、趙王が秦の琴を弾かされたとき、藺相如は秦王に缶(かめ。打楽器として使う。)を叩かせた。下臣を前にして主君を名前で呼べば

藤堂高節

高節 (とうどう たかせつ、? - 明治20年(1887年)4月10日)は、津藩士名張藤堂家(藤堂宮内家)第11代。伊賀国名張1万5000石の領主。 幼名は八束。初名は長発。通称は宮内、九八郎。父は藤堂采女家第8代藤堂元晋、兄は同第9代藤堂元施。正室は藤堂長親の娘。子は藤堂高文、藤堂高碩、藤堂高成室郁子。養子は藤堂高成。

高堂国典

1926年(大正15年)帝国キネマの内紛からアシヤ映画製作所、聯合映畫藝術家協會に所属した後、同年古海卓二監督の第一線映画聯盟に加わり『恐しき邂逅』などに出演。 1927年(昭和2年)運動終了後に市川右太衛門プロダクションあやめ池撮影所に入り主要メンバーとして活動、『笑ふな金平

藤堂高次

藤堂 高次(とうどう たかつぐ)は、伊勢津藩の第2代藩主。藤堂家宗家2代。 慶長6年(1602年)、当時伊予今治藩主であった藤堂高虎の嫡男として誕生した。 高虎にはなかなか実子ができなかったため、丹羽長秀の子を養嗣子・高吉として迎えていた。高虎が46歳のとき、ようやく実子である高次が生まれ、寛永7

藤堂高嶷

金棒引きを主とした金融政策、殖産興業政策、土地制度改革などがそれであった。ところが、土地制度改革では均田制を導入しようとしたが、多くの土地を所有していた地主たちが猛反対し、寛政8年(1796年)に安濃津地割騒動と呼ばれる3万人規模の領民一揆が発生して失敗した。金融政策においても借金を強権的に棒引き

藤堂高睦

高睦には2男1女がいたが全て早世したため、宝永5年(1708年)10月9日に高睦が42歳で死去した後は、支藩の久居藩から迎えた養嗣子の高敏が跡を継いだ。 父:藤堂高次 母:平井徳右衛門の娘 養父:藤堂高久 正室:於義(小笠原忠雄の娘) 側室:青松院(岡部休心の娘) 養子:藤堂高敏 - 藤堂高通の三男

藤堂高紹

月14日(NDLJP:2950990/11) ^ a b 『新聞集成明治編年史』第13巻、p.528 「由々しき問題を惹起したる藤堂伯 懲戒委員會に附せらる」(NDLJP:1920436/287) ^ 『官報』第7653号「宮廷録事」、明治41年12月28日(NDLJP:2951002/12) ^ a

藤堂高秭

寛政3年(1791年)4月12日、第7代藩主・藤堂高敦(伊勢津藩の第9代藩主・藤堂高嶷)の十男として生まれる。文政元年(1818年)12月18日に同母兄で第13代藩主の高邁が隠居し、高邁の子・高聴が9歳という幼少のため、兄の養子となって家督を継ぎ、12月28日に従五位下・佐渡守に叙位・任官する。

藤堂虎高

慶長4年(1599年)、高虎の領地である伊予宇和島城で死去した。享年84。 ^ 三重県指定文化財。紙本著色、1幅、縦76.7x35.4cm。元和7年(1621年)7月中澣(11~20日)の年記。日饒(斎藤道三の息子)賛。肖像画は近江国そして浅井氏に所縁のある狩野山楽の作風に酷似し、日饒の花押の下には削り取られたような

藤堂高邁

藤堂 高邁(とうどう たかとう)は、伊勢久居藩の第13代藩主。久居陣屋の主。 天明6年(1786年)3月2日、第7代藩主・藤堂高敦(のちに津藩の第9代藩主・藤堂高嶷となる)の五男として生まれる。文化3年(1806年)8月に父が死去すると、久居藩主を継いでいた同母兄の高兌が10月12日に津藩主を継ぐこ

高塚竹堂

竹堂(たかつか ちくどう、本名・髙塚 錠二(たかつか ていじ)、1889年5月23日 - 1968年3月30日)は、日本の書家。竹堂または笹舟と号し、特に仮名書の大家。書斎は笹舟書院という。 1889年(明治22年) - 5月23日に静岡県有渡郡不二見村船越(現・静岡市清水区船越町)で不二見村の村長髙塚仁右

藤堂高刑

墓は大阪府八尾市本町の常光寺にある。子孫は、伊勢津藩の藤堂仁右衛門家として代々城代家老(番頭)を務めた。 関ヶ原の戦い 関ヶ原の戦いにおいて、ハンセン病を煩っていた大谷吉継は、自害する前に側近の湯浅五助に「病み崩れた醜い顔を敵に晒すな」と申し伝えて果てた。五助は主君の命を守り、取った吉継の首を戦場から離れ

藤堂高久

業を行なった。そのため領民の評判は良く、『土芥寇讎記』では「領民は(高久を)仏のように思い」慕っていた、他の有象無象の愚昧な藩主たちと比較すると「雲泥万里の差がある」と書かれている。一方、1669年(寛文9年)に白土山の陶土採掘を禁止したため、陶工が大量に信楽に流出、伊賀焼衰退の原因を作ったのも高久である。

藤堂高吉

寛永7年(1630年)、養父の高虎が死去すると高吉は、葬儀に列席しようと、今治から江戸に向かった。その途中の近江水口で、本藩の使者によって説得され、代理として鎌田新兵衛を派遣し、高吉は今治に帰国した。家督が正式に決まっていなかったため、高次から相当の圧力がかかったとされる。

藤堂高潔

藤堂 高潔(とうどう たかきよ)は、伊勢津藩の第12代(最後)の藩主(知藩事)。藤堂家宗家12代。正室は蜂須賀斉昌養女で蜂須賀昭順の娘の量子。 天保8年(1837年)9月20日に生まれる。嘉永元年12月16日(1849年)、従四位下・侍従・大学頭に叙任する。文久3年(1863年)、父に代わって上京し

藤堂高猷

が新政府軍に転じ、幕軍を攻撃。新政府軍勝利の一因となった。さらに戊辰戦争、箱館戦争にも派兵した。 明治2年、津八幡宮境内に三重県護国神社の前身となる表忠社を創建し、津藩士の御霊を祀った。 明治4年(1871年)6月28日、家督を次男の高潔に譲って隠居する。明治28年(1895年)2月9日、83歳の長寿で死去した。

藤堂高聴

藤堂 高聴(とうどう たかより)は、伊勢久居藩の第15代藩主。久居藩藤堂家15代。久居陣屋の主。 文化7年(1810年)11月23日、第13代藩主・高邁の五男として生まれる。文政元年(1818年)に父が隠居したときには幼少のために家督を継げず、叔父の高秭が継いだ。高聴は高秭の養子となって、文政10年

藤堂高堅

なる。しかし元禄16年(1703年)、正徳3年(1713年)に江戸屋敷が焼失している。正徳5年(1715年)6月14日に江戸で死去した。享年66。 父母 藤堂高次(実父) 黒川氏(香雲院) − 側室(実母) 藤堂高通(養父) 側室 小林氏(春光院) 子女 藤堂高陳(長男)生母は小林氏(側室) 辰 冬

藤堂高美

藤堂 高美 (とうどう たかよし、文政7年(1824年) - 元治元年8月29日(1864年9月29日))は、津藩士名張藤堂家(藤堂宮内家)第10代。伊賀国名張1万5000石の領主。 父は津藩の第10代藩主藤堂高兌。正室は藤堂長徳の長女都留子。養子は藤堂高節。幼名は松千代。通称は大炊、宮内。