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Từ điển

Chi tiết từ

儼

[げん]
※一※ (ト|タル)
(1)態度や処置がきびしい。 厳格。
「~たる態度」「~として譲らない」
(2)動かしがたい。
「~として存在する」
※二※ (形動ナリ)
{※一※}に同じ。
「修例の~なる規則の密なる/もしや草紙(桜痴)」

Từ liên quan

儼乎

おごそかなさま。 いかめしいさま。 「~たる師としての態度/蒲団(花袋)」

曹儼

曹 儼(そう げん)は、中国三国時代の魏の広平哀王。初代皇帝(文帝)曹丕の皇子。母は宋姫。 黄初3年(222年)に封爵されたが、翌黄初4年(223年)には死去した。子はなく、領国は没収された。 ^ 陳寿撰、裴松之注『三国志』魏書 文帝諸子「宋姬生廣平哀王儼」 s:zh:三國志/卷20#文帝諸子 ^ 『三国志』魏書

張儼

呉郡の「張家」は「顧家」「陸家」「朱家」と並んで呉の四姓と称された。『呉録』 ^ 『三国志』呉志朱桓伝が引く『文士伝』:三人各隨其目所見而賦之,皆成而後坐,據大歓悦。 ^ 『芸術類聚』巻六十 ^ 『呉録』:使于晋,晧謂儼曰:“今南北通好,以君為有出境之才,故相屈行。” ^

趙儼

りそうになったが、趙儼は細心の注意を払い、手練手管を駆使してこの危機を乗り切った。趙儼は2万人の援軍を漢中に送り届けた。 219年、劉備軍の関羽が曹仁を攻撃すると(樊城の戦い)、趙儼は議郎の資格で曹仁の軍事に参画することになり、徐晃と共に進撃した。趙儼が「兵力の足り

高儼

(天統5年)2月、琅邪王に改封された。11月、大司馬となった。 兄の後主は高儼の聡明さと剛毅さが自らの地位を脅かすことを恐れて、たびたびその権限を削ろうと図った。571年(武平2年)、後主は高儼を北宮に移させ、5日に1回朝廷に出るのみと定め、それまでのように母の胡太后と毎日会えなくさせた。4月、高

鄭儼

鄭 儼(てい げん、生年不詳 - 528年)は、北魏の霊太后に仕えた寵臣。字は季然。本貫は滎陽郡開封県。 鄭敬叔(鄭羲の兄の鄭洞林の子)の子として生まれた。はじめ胡国珍の下で司徒行参軍となり、霊太后に見出されて宮中に入り、員外散騎侍郎・直後となった。520年(正光元年)、元叉や劉騰らによって霊太后

耶律儼

。もとの姓は李。南京析津府の人。正史『遼史』のもととなる『皇朝実録』70巻を撰した。遼の宰相の耶律処温は甥にあたる。 耶律仲禧の子として生まれた。身仕舞いが秀麗で、学問を好み、詩名で知られた。咸雍年間、進士に及第した。著作佐郎を代行し、中書令史に任じられた。太康初年、都部署判官・将作少監をつとめた。

慕容儼

容儼を郢城に派遣して駐屯させた。慕容儼が入城すると、梁の大都督の侯瑱と任約が水陸の軍を率いて城下を包囲した。慕容儼が城中の城隍神の神祠に祈祷すると、衝風が起こって包囲の鉄鎖を切ったといい、神助を得たとして城中の士気が高まった。侯瑱が城北に柵を築いて坊郭を焼き払い、任約が城南に営塁を置いて連係した。慕

李儼 (前秦)

李儼が前秦軍を迎え入れるつもりがない事を知ると、王猛は平服で輿に乗り、数10人の従者だけを連れて面会を求めた。李儼は迎え入れようと門を開くと、李儼の守備が整わないうちに将士を次々と突入させた。こうして李儼は生け捕りとされ、枹罕は占領された。王猛は李儼へ、出迎えが遅かった件について詰る

藤原儼子

長徳2年(996年)頃、儼子の元に花山法皇が通っていたところ、藤原伊周はそれを自分の想い人である三の君に通っていると勘違いし長徳の変に発展した。 長和5年(1016年)1月21日に道長の子を産むが、死産で母子共々死去したという。 ^ a b 『小右記』長和5年正月21日条 ^ 『尊卑分脈』為光公流 表示 編集 表示 編集

王建 (前蜀)

王宗訓(武泰軍節度使、本名は王茂権) 王宗矩(本名は侯矩) 王宗勲 王宗朗(雄武軍節度使、本名は全師朗) 王宗威(山南節度使) 王宗儔(山南節度使・中書令) 王宗儼(甲申指揮使) 王宗魯(武興軍節度使) 王宗鐸(興州刺史) 王宗宏 王宗範(妃嬪の周氏と前夫の子) 王宗晏(永寧軍節度使) 王宗寿(嘉王・武信軍節度使、王建の族子)

大日本警察の歌

解を与へたい(中略)治安を維持して明るく親しく之に処していくことについての理解が足りないので、歌の中に其をハッキリさせたかった。それから全部として、儼乎たる日本精神に立つことを歌おうとしたのである。 — 北原白秋(『警察協会雑誌』1935年5月号) こうした意図より新警察歌制定と併せ、国民に対して警

奈良の大仏 (市原市)

儼然として叢間に安置す。榛荊を發き拝するに、基砌半は土に陷り、銅上盡青衣を生ず。凡幾星霜を経たりといふ事しらずと。按に、承平中、平将門東百官などいふ事置きし日、南都の銅佛に摹倣せしにや。しかれども、自立の日久しからざれば、精舎を建るに暇なしと