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Từ điển

Chi tiết từ

手翰

[しゅかん]
手紙。

Từ liên quan

来翰

人から来た手紙。 来書。 来信。

書翰

手紙。 書状。

宸翰

天子直筆の文書。 宸筆。 親翰。

朶翰

他人の手紙を敬っていう語。 朶雲。

翰林

〔「翰」は筆, 「林」は多いことの意〕 (1)学者の仲間。 文人の仲間。 (2)「翰林院」「翰林学士」の略。

翰長

「官長{(2)}」に同じ。

翰墨

(1)筆と墨。 (2)書画・詩文を書くこと。 また, 詩文や書画。 (3)文芸に関すること。 文事。

貴翰

相手の手紙を敬っていう語。 お手紙。 「~拝読」

王翰

王 翰(おう かん)は、中国・唐の詩人。字は子羽。并州晋陽県の出身。 豪放な性格で、酒を好み、家に名馬と美妓を集めて、狩猟や宴会に日を送っていた。睿宗の景雲2年(711年)、進士に及第し、張説に認められて駕部員外郎に任ぜられたが、説の失脚とともに汝州刺史として都を追われ、次いで仙州別駕に左遷されたう

翰苑

都大学から影印出版された。1954年に国宝に指定された。1977年に、菅原道真の1075年忌事業として、竹内理三による釈文・訓読文が付けられて刊行された。 現存の写本は誤字や脱文が非常に多く読みにくいものだが、現存しない文献を多数引用し、また現存する文献であっても本文が異なっていることが多いために

陳奮翰

〔儒者の用いた難解な漢語に擬した造語。 あるいは外国人の言葉の口まねからともいう〕 人の話している言葉や内容が全くわからないこと。 話が全く通じないこと。 また, そのさま。 ちんぷんかんぷん。 「きょうの話はとてもむずかしくて~だ」

桑維翰

工作を秘かに進めたが、滅亡の腹いせのために石重貴の命令で獄中で殺された。 なお、桑維翰が青年時代に鉄で出来た硯が穴が開くまで墨をすって学問を行った末に進士になったという故事(『新五代史』)から『磨穿鉄硯』という言葉が生まれたといわれている。 菊池英夫「桑維翰」『アジア歴史事典 5』(平凡社、1984年)

劉翰東

しかも劉はこれに逆恨みを抱き、陳明仁が糧食の略奪行為を行ったと国民政府主席東北行轅主任の陳誠に誣告、陳明仁を解任に追いやった。陳明仁の失脚は全軍の士気阻喪をもたらし、東北前線での最終的な敗北の主因の1つとなる。1947年(民国36年)11月、劉は国民政府主席東北行轅政務委員会委員を兼任し、同年冬には

藩翰譜

元禄15年(1702年)成立。元禄13年(1700年)、甲府藩主の徳川綱豊の命を受けて編纂したという諸大名337家の由来と事績を集録し、系図をつけたもの。慶長5年(1600年)から延宝8年(1680年)までの内容が収録されている。短時日に完成されたもので事実の誤呈があり、白石自身のちに補訂を加え

金翰秀

金 翰秀(キム・ハンス、ハングル:김한수、1971年10月30日 - )は、大韓民国出身の元プロ野球選手(内野手)、野球指導者。 中央大学校を経て1994年に三星ライオンズに入団。 2000年のシドニー五輪、2003年のアテネ五輪アジア予選などで韓国代表入りした。

哥舒翰

哥舒 翰(かじょ かん、 生年不詳 - 至徳2載10月16日(757年12月1日))は、唐の将軍。テュルク系突騎施(テュルギシュ、西突厥の主流となっていた部族)出身。吐蕃との戦いで活躍したが、安史の乱で敗北し、捕らえられ殺害された。 突騎施の族長、哥舒部の末裔。父の哥舒道元が安西都護将軍であったた

島田翰

2021年3月31日閲覧。 ^ 高野 1998. ^ a b 高野 1998, p. 299. ^ a b c 高野 1998, p. 300;400. ^ 永井荷風 『梅雨晴』:新字新仮名 - 青空文庫 ^ 高野 1998, p. 301. ^ a b 高野 1998, p. 301;309. ^ a b c d 長澤

慕容翰

く恩遇するようになった。やがて慕容翰は建威将軍に任じられた。 342年10月、慕容翰が慕容皝へ「宇文部は強盛を誇り、度々我が国へ害を為しております。宇文逸豆帰は宇文乞得亀から大人の座を簒奪し、国民は彼に懐いておりません。また、彼自身の素質も凡庸で将帥の器ではありません。国に防備は無く

李翰祥

れた。これを皮切りに、70年代にはエロティック・コメディを多く監督したが、本人が心血を注いでいたのは1975年の歴史映画『傾國傾城』とその続編『瀛台泣血』であるという。80年代には中国大陸との合作で『西太后』、『火龍』を発表。1996年にテレビドラマの撮影のために滞在していた北京で、心臓病の発作で死去した。