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Từ điển

Chi tiết từ

日朗

日朗(にちろう、寛元3年4月8日(1245年5月5日(ユリウス暦)) - 元応2年1月21日(1320年3月1日(ユリウス暦))は、鎌倉時代の日蓮宗・法華宗の僧。日蓮六老僧の一人。号は筑後房。大国阿闍梨とも称する。日朗門流・池上門流・比企谷門流の祖。下総国の出身。父は平賀有国。 1261年(文応2年)日蓮を師として法を学んだ。1271年

Từ liên quan

朗朗

声などの澄んで, はっきりと聞こえるさま。 「音吐~」「長詩を…美しい声で~と吟じたりした/或る女(武郎)」

日野市朗

日野 市朗(ひの いちろう、1934年2月17日 - 2003年7月6日)は、日本の弁護士、政治家。 仙台弁護士会副会長、衆議院議員(8期)、日本社会党政策審議会長(第14代)、衆議院災害対策特別委員長、衆議院農林水産委員長、郵政大臣(第61代)、社会民主党副党首などを歴任した。

日下部五朗

ているが、梶は「私が出演した作品にプロデューサーとして日下部さんの名前が入っていることはありましたが、現場でお会いしてお話したことのない、まったく存じ上げない方」という。梶は「鬼龍院花子の生涯」の原作を書店で読んで感銘を受け、映画化に向けての具体的なプランを進めて、シノプシスをマネージャーにまとめさ

日高恒太朗

事務所の歳月』が学習研究社から1986年に出版されている)。 波平弁護士 仲間徹を通じて知り合う。両者は同じ宮古高校出身で、波平は3期後輩であった。仲間は、彼に法律問題を依頼することがあった。 日高は出版社からの取材費が尽きた後、波平弁護士の好意でアパートの一室を提供され、滞在を3週間延ばす。取材は

品類抄 日朗師

『品類抄』(日朗師)(ひんるいしょう にちろうし)は、日向の念仏の宝塔や道場建設等の謗法に触れた文。 日朗師の遺言 抑も甲斐の國波木井の郷身延山久遠寺と申すは日蓮聖人九箇年法華経読誦の山なり。(中略)日蓮何国にて死すといえども墓をば身延山に立て置きて彼の山を守るべしと御遺言ありしかば、御骨を頸に懸け身延山に閉じ篭り彼

朗誦

詩句などを声高に読むこと。 朗読。 「ホラチウスが句を~し/即興詩人(鴎外)」

朗吟

詩歌を節をつけて声高らかに唱えること。 朗詠。 「李白の詩を~する」

朗笑

ほがらかに笑うこと。 また, その笑い。

朗唱

声高に歌うこと。 「校歌を~する」

朗詠

(1)詩歌を声高らかにうたうこと。 朗吟。 「漢詩を~する」 (2)雅楽の一。 漢詩に曲節をつけてうたう自由なリズムの謡物。 平安以降, 管弦の遊びの折などに行われた。 その詞章となる詩歌を集めたものに「和漢朗詠集」「新撰朗詠集」などがある。

晴朗

空が晴れて, うらうらとしているさま。 「或~なる夏日(ナツノヒ)に/思出の記(蘆花)」 ﹛派生﹜~さ(名)

朗弁

(689-773) 奈良時代の僧。 日本華厳宗第二祖。 義淵に法相宗を学び, 奈良東山で苦行。 金鐘寺(のち, 羂索院)に住し, 審祥(シンジヨウ)を講師としてはじめて華厳の講席を開く。 東大寺初代別当, ついで僧正。 二歳のとき鷲(ワシ)にさらわれて春日社前の杉(良弁杉)の枝に置かれ, 義淵に養育されたという伝説がある。 金鐘行者。 金鷲菩薩。 りょうべん。

朗話

ほがらかな, 聞いて気持ちのよい話。

麗朗

うるわしく明るいさま。 うららかなさま。 「春日~たり/日乗(荷風)」

荀朗

後軍を撃破した。王僧弁が東征すると、荀朗は部将の范宝勝と弟の荀曉に2000の兵を率いさせて王僧弁を助けさせた。侯景の乱が平定されると、北斉の郭元建を踟蹰山で撃破した。 承聖2年(553年)、部曲1万家あまりを率いて長江を南に渡り、宣城郡に入植した。元帝により持節・通直散騎常侍・安南将軍・都督南兗州諸

向朗

向 朗(しょう ろう)は、中国後漢末期から三国時代の政治家。字は巨達。荊州襄陽郡宜城県の人。子は向条。甥は向寵。 幼少時に父を失い、二人の兄に育てられた。若い頃は司馬徽に師事し、徐庶・龐統・韓嵩らと親交を結んだ。その後、劉表に仕官して臨沮県長となった。劉表死後は劉備に仕えた。

朗州

朗州(ろうしゅう)は、中国にかつて存在した州。隋代から北宋にかけて、現在の湖南省常徳市一帯に設置された。 560年(天嘉元年)、南朝陳により荊州の天門郡・義陽郡・南平郡と郢州の武陵郡を分割して設置された武州を前身とする。575年(太建7年)、武州は沅州と改称された。

白朗

この白朗の軍(白狼軍)に1913年10月頃から1914年1月初めまで、中国名「王鉄石」として入った日本人がいた。工藤鉄三郎である。工藤は後1932年に満洲国執政溥儀から「忠」名をもらい、戸籍上も工藤忠と改名した。工藤は南京の第二革命軍に参加し、革命軍の崩壊の後、漢口から白狼軍に向かい、江湖会(哥老会)の

苻朗

かったが才能を有し、その兄である王国宝は美しい容貌を持っていたが、才能は王忱に劣っていた。故に、苻朗はこのように言ったのである。これを聞いた竺法汰は悵然として自失したという。苻朗が人の機嫌を損ねたり、軽んじて侮る様は、いずれもこのようであった。 謝安は宴を開くと苻朗はいつもこれに招かれた。朝士で座は