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Từ điển

Chi tiết từ

江朝宗

江 朝宗(こう ちょうそう)は、清末・中華民国の政治家・軍人。初めは北京政府に属した。後に中華民国臨時政府など親日政権に与している。字は宇澄。号は雨丞。 最初は台湾巡撫劉銘伝に仕え、台湾に渡って劉銘伝の属官として活動する。しかし江朝宗は賄賂を度々収受したために、1889年(光緒15年)に劉銘伝によ

Từ liên quan

朝宗

(1)〔春に謁するのを「朝」, 夏に謁するのを「宗」というのによる〕 古く, 中国で諸侯が天子に拝謁すること。 (2)河水が大海に注ぎ入ること。 (3)権威のある者に寄り従うこと。

朝宗岩

朝宗岩(チョジョンアム、朝鮮語: 조종암)は、1975年9月5日に京畿道記念物に指定された、京畿道加平郡にある岩。1684年、李齊杜、許格、白海明などが「壬辰倭乱」のときに、朝鮮の宗主国である明王朝が朝鮮に施した恩恵、および「丙子胡乱」で清王朝から受けた侮辱を忘れないために岩に刻文した。岩には、明王

伊達朝宗

伊達 朝宗(だて ともむね)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての御家人。伊達宗家初代当主。従五位下・遠江守、常陸介。 『尊卑分脈』に記載されている藤原山蔭流の待賢門院非蔵人藤原光隆の息子である朝宗に比定されているが、これには異説もある(後述)。母は六条判官源為義の娘と言う。息子に為宗、宗村(殖野為重

朝倉宗滴

朝倉 宗滴(あさくら そうてき) / 朝倉 教景(あさくら のりかげ)は、戦国時代の武将。越前国の戦国大名・朝倉氏の家臣。朝倉貞景・朝倉孝景(宗淳)・朝倉義景の3代の朝倉氏当主を一族の宿老としてよく補佐し、各地を転戦して武名を轟かせた。諱は教景で、宗滴は法名。茶器・九十九髪茄子を所有していたことでも知られる。

純宗 (朝鮮)

李完用は李太王の住む徳寿宮への移転を考えたが、これを耳にした李坧は「天皇陛下から賜った昌徳宮だから動かぬぞ」と述べて李完用を叱責し、以後2年間昌徳宮の修復が終わるまで楽善斎で暮らした。李王職事務官の権藤四郎介は李坧が「昌徳宮」の宮号によって李王家の祭祀が保たれると考えていたからと見ている。

高宗 (朝鮮)

1910年(明治43年)8月の韓国併合にともない、太王(王族)の称号を与えられ、「徳寿宮李太王」と称された。 1919年1月21日、三・一運動の起きるおよそ1ヶ月前に67歳で薨去した。日本の王公族徳寿宮李太王㷩として1919年(大正8年)3月3日に国葬が執り行われた。死去に際して日本による毒

上杉朝宗

上杉 朝宗(うえすぎ ともむね)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将・守護大名。室町幕府関東管領、上総国・武蔵国守護。犬懸上杉家3代当主。 上杉憲藤の子として誕生。延元3年/建武5年(1338年)、父・憲藤が戦死した時は幼少であったため、兄・朝房と共に家臣の石川覚道に養育された。

多功宗朝

延徳2年(1240年)3月12日、番衛の任務を怠り同族の塩谷泰朝とともに幕府から出仕停止の処分を下されるが、この処分はほどなく解かれたと考えられ、翌年の仁治2年(1241年)8月25日の将軍頼経の北斗堂供養、同年11月4日の安達義景の鶴見別荘下向などに従っている。いつ頃より石見守となったか

比企朝宗

比企 朝宗(ひき ともむね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武士。鎌倉幕府の御家人。比企掃部允と比企尼の子、または弟。 寿永3年(1184年)信越地方を勢力基盤とした源義仲の滅亡後、北陸道勧農使に任じられる。勧農使は後の鎌倉幕府における守護全国設置の前身とも見なされるが、警察権に留まる守護とは異な

江月宗玩

寺住持。堺の豪商で織田信長、豊臣秀吉に茶頭として仕えた津田宗及の子。天王寺屋を継いだ津田宗凡は兄。俗名は宗丸。幼名を道丸、次いで春松。号に欠伸子、慒袋子、赫々子など。諡は大梁興宗禅師。 幼少より大徳寺の僧春屋宗園に師事し、15歳の時に剃髪して宗玩を名乗る。1610年に大徳寺156世住持となり、161

吉江宗信

上杉景勝方に付いた。織田信長配下の柴田勝家軍が越中戦線で攻勢に出、増山城を守備していた宗信は、織田方に寝返った石黒成綱の居城・木舟城を攻め落とすなど老体に鞭打って奮戦した。天正9年(1581年)には、孫・中条景泰とその弟・吉江長忠に対し、越中方面で功を挙げたら隠居分として得た神保四郎左衛門の遺領の内

伊江朝直

、将軍家茂の継承を賀するために再び慶賀正使に選ばれたが、7月に老中久世大和守からの国事多端という内意により延期となった。当時は尊王攘夷論が熾烈で、3月には桜田門外の変により井伊直弼が凶刃に倒れるなど幕府にとって多事多難な時であった。 また、朝直は王子でありながら豆腐料理を好物としていた。喜舎場朝賢ら

大江公朝

寿永2年(1183年)12月、源義仲と対立し法住寺合戦に及んだ後白河院の使者として、鎌倉から派遣され伊勢国に駐留していた源頼朝代官の源義経・中原親能に義仲乱逆を訴えた。文治元年(1185年)8月30日、頼朝の依頼により後白河院の命で捜索された源義朝と鎌田政清の首を運ぶ勅使として鎌倉へ下向。頼朝に丁重に迎え

大江朝綱

『江談抄』や『古今著聞集』には、908年(延喜8年)に来朝した渤海使の正使裴璆(はいきゅう)が朝綱の「前途程遠し 思いを雁山之夕べの雲に馳す」と書いた漢詩(『本朝文粋』巻九)の見事さに感嘆して、919年(延喜19年)に再来日した際「後江相公は大臣の位にまで登ったか」と尋ねたのに対し日本側が「いいえ

伊江朝雄

選した。伊江の当選を目指して多くの国鉄管理職が奔走したが、その結果、鉄道管理局部長、課長、駅長ら32人が選挙違反で逮捕された。国鉄は政府や政治家から干渉を受けていたが、国鉄自身も深く政治に関わっていたことが浮き彫りとなった。 沖縄開発政務次官、参議院大蔵委員長などの要職を歴任。1989年に3選。19

桑江朝幸

桑江 朝幸(くわえ ちょうこう、1918年(大正7年)2月3日 - 1993年(平成5年)12月16日)は、琉球政府・沖縄県の政治家である。軍用地主の団体である市町村土地特別委員連合会(現:沖縄県軍用地等地主会連合会、通称:土地連)の初代会長となった。1978年から1990年まで沖縄市の市長を務めた

伊江朝義

次女:眞宇志金(嘉靖四十三年〜萬暦三十年、豊國弼浦添親方元良室) 三女:眞鍋樽(隆慶二年〜萬暦二十一年、向萬祀・東風平按司朝易室) 次男:向文徳・伊江按司朝仲(兄朝恒の跡目)(隆慶六年〜) 朝仲室:思戸金(向宗文・具志頭按司朝受女) 朝仲継室:思乙金(鄭迵・謝名親方利山女、〜康煕十四年) 按司 御殿 (沖縄) 向姓家譜大宗(伊江家)

伊江朝良

長女:真鍋樽(毛続熙・豊見嶺親方盛幸に嫁ぐ) 次女:真蒲戸金(毛思謙・小波津里之子親雲上安恒) 三女:真牛金(向廷柱・浦添按司朝兼に嫁ぐ) 次男:朝完 三男:朝軌、童名:松金、唐名:向依礼 四女:真加戸樽 五女:思乙金 四男:朝承 那覇出版社 編『沖縄門中大事典』宮里朝光(監修)、那覇出版社、1998年8月。ASIN 48909510

睿宗 (朝鮮王)

睿宗(イェジョン、えいそう、1450年2月12日 - 1469年12月31日)は、李氏朝鮮の第8代国王(在位:1468年9月7日 - 1469年12月31日)。諱は晄(ファン、황)。字は平甫(ピョンボ、へいほ、평보)、即位後に明照(ミョンジョ、めいしょう、명조)と改称。君号は海陽大君(ヘヤンデグン、