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Từ điển

Chi tiết từ

源経信

から衣 うつ声きけば 月きよみ まだねぬ人を 空にしるかな (衣を打つ砧の音を聞くと、月が清らかに照っているので、まだ眠らずにいる人のあることを、それとはなしに知られることだ) と歌を口ずさんだ。すると、前栽の方から 北斗星前横旅鴈 南楼月下擣寒衣[北斗の星前 旅鴈横たわり 南楼の月下 寒衣を擣つ]

Từ liên quan

源信

(810-868) 平安初期の廷臣。 嵯峨天皇の皇子。 814年源姓を賜り臣籍に降下, 皇子で源姓を賜る初例となった。 857年左大臣。 応天門の変では放火の罪に問われたが疑いは晴れた。

源信

(942-1017) 平安中期の天台宗の僧。 恵心僧都・横川(ヨカワ)僧都。 大和の人。 比叡山で良源に師事し, 横川恵心院に住す。 「往生要集」を著して浄土教の興隆に大きく貢献し, また文学・芸術にも多くの影響を与えた。 一方, 天台宗恵心流の祖とされ, 中古・中世の天台本覚思想の先駆をなした。 著「一乗要訣」「観心略要集」「阿弥陀経略記」など。

源義経

文楽編・義経千本桜|文化デジタルライブラリー - 文化デジタルライブラリー ^ 『尊卑分脈』 ^ 滋賀県竜王町「義経元服のいわれ」 ^ a b 『玉葉』7月30日条 ^ 『玉葉』11月2日条 ^ 『玉葉』11月7日条 ^ 『玉葉』12月1日条 ^ a b 元木 2007. ^ a b 菱沼 2005. ^

源経頼

長絹20疋を持った使いを経頼の許へ遣わせたという。(『古事談』) 宇治殿が殿上の小板敷(清涼殿殿上の間の板敷)にて経頼を譴責した。源右府(源師房)のことを謗ったためという。経頼が汗を流しながら退出したところを、紫宸殿の北庇で源経長

源経基

『尊卑分脈』等によると経基の孫とされる源頼信が誉田八幡宮に奉ったという告文(願文)の写しが石清水八幡宮田中家文書の中にある(石清水八幡宮田中家文書「源頼信告文案」古写)。それによると、源頼信は、八幡大菩薩すなわち応神天皇を自らの「二十二世の氏祖」であるとして、「先

源経長

正月30日:和泉守を兼ぬ(蔵人巡)。 10月16日:右中弁に転ず。 長元9年(1036年) 正月7日:従四位下に叙す。 2月27日:従四位上に叙す(去年中宮行啓斎院賞追申之)。 4月18日:斎院長官を止む。 長暦2年(1038年) 6月25日:権左中弁に転じ、和泉守を辞す。 12月21日(1039年1月18日):正四位下に叙す(行幸春日社行事賞)。

源経相

女子:藤原資房室 ^ 『小右記』 ^ 『御堂関白記』 ^ a b 『朝野群載』第26 万寿2年5月3日官符 ^ 万寿3年正月15日見任(『左経記』)、万寿3年正月19日藤原経通任(『公卿補任』) ^ a b 『春記』長暦3年10月7日条 ^ 『左経記』万寿3年正月15日条 『尊卑分脈 第三篇』吉川弘文館、1987年

源経光

久安2年(1146年)3月9日の夜半に経光の従兄妹にあたる官子内親王(白河天皇第五皇女)の邸宅が落雷により焼失した際、兵仗を手に執り轟く雷を追い払おうとしたところ邸に雷が落ちて震死(感電死)したとの記事が『本朝世紀』にみえている。事件の詳細については不明であるが、同書翌日条には経光が近江国建部大社の社務(具体的な経緯・詳細は不明)

源経房

1020年)大宰権帥を兼ね、翌治安元年(1021年)鎮西に赴任し、同3年(1023年)10月12日任所において薨去。享年55。 経房の死後、筑前守平理義が「帥の納所等」を検封し、それを管理していた経房の妻に対し印鑰を引き渡すように責め立てる事件が発生し、平維衡が派遣された。

源経成

康平3年(1060年) 12月16日:左兵衛督。2月21日:兼播磨権守 康平4年(1061年) 12月8日:権中納言、督別当如元 康平7年(1064年) 12月13日:辞別当 康平8年(1065年) 正月7日:正二位(為修理大夫之時造興福寺東金堂行事) 治暦2年(1066年) 7月9日:薨去(権中納言正二位) 父:源長経

起源経

(パーリ) > 起源経 『起源経』(きげんきょう、巴: Aggañña-sutta, アッガンニャ・スッタ)とは、パーリ仏典経蔵長部の第27経。『世起経』(せいききょう)、『起世因本経』(きせいんほんきょう)とも。 類似内容の伝統漢訳経典としては、『長阿含経』(大正蔵1)の第5経「小縁経」、『白衣金幢二婆羅門縁

源国信

中将家和歌合」を主催、また『堀河百首』を編纂した。金葉和歌集初出、以後37首が勅撰和歌集に採られる。 百人秀歌(小倉百人一首の原撰本) 春日野の 下萌えわたる 草の上に つれなく見ゆる 春の淡雪 天永元年(1110年)11月28日に鳥羽に参った折に俄かに飲水病を発する。日を追って重くなり、翌天永2

源頼信

『古事談』や『今昔物語集』には頼信に関する説話が幾つか記されている。 墓は、河内源氏の菩提寺の通法寺近くの大阪府南河内郡太子町に、義家と共にある。 甲斐守在任時、平忠常の乱が起き長期化した、朝廷は平直方に代えて、源頼信を追討使に任じた。

源雅信

正月30日:近江権守を兼ねる。 閏7月28日:治部卿を兼ねる。 応和2年(962年) 正月7日:従三位に昇叙。 日付不詳:近江権守を解任される。 応和3年(963年) 正月28日:播磨権守を兼ねる。 康保4年(967年) 日付不詳:播磨権守を解任される。 5月15日:左兵衛督を兼ねる。 康保5年(968年)

源成信

れ、後世、多くの作品に脚色された。『権記』は、前年道長が大病に罹患した時、成信は看病に当たったが、病状が進行するにつれ、童子・下僕が疎かにして怠けるようになったので、人心の変改を儚んで発心するに至ったと記す。また、ある人の話として、成信と重家は豊楽院の荒廃を見て、無常観を喚起されたという。しかし、二

源重信

った縁で藤原道長に買い取られ、のちにその息子・頼通に伝えられて平等院となった。 修理大夫を務めていた頃、出家して仁和寺に住んでいた父・敦実親王のご機嫌伺いに訪問する際、往路は内裏の東側(東大宮大路)・北側(一条大路)、復路は内裏の西側(西大宮大路)・南側(二条大路)と、行き帰りの行路を利用して内裏

源光信

匿われたが、大治5年(1130年)、もう一人の義親が大津から現れ、10月、この二人は四条大宮にある光信の邸宅の前で合戦を演じた。結果、大津義親が敗れ贋物だと自白したが、怒った光信は11月に騎馬武者20、徒歩武者4、50名を率いて忠実の屋敷に夜襲し、義親とその郎党十数人を殺害した(源義親の乱)。

源信明

宇多上皇が崩御したときの哀傷歌を始めとして、村上天皇の名所絵屏風歌、朱雀天皇皇女・昌子内親王裳着の折の屏風歌など数多くの歌が残されている。女流歌人である中務とはかなり親密な関係にあったらしく、彼女との贈答歌は『信明集』にも一連の歌群として収録される。他にも源公平(信明の叔父)

源信雅

保延元年(1135年) 5月5日:卒去 父:源顕房 母:源顕雅母(藤原伊綱の娘) 妻:源国明または為家の娘(高階為家か?) 男子:源成雅 妻:源国房の娘 男子:源雅仲 生母不明の子女 男子:源忠信 男子:源顕成 男子:源頼季 男子:源季定 男子:源長雅 男子:源遠雅 男子:房覚 - 園城寺長吏 男子:円雲