Logo
Luyện đọc
Bài học
Sổ tay
Từ điển
Thi JLPT
Video
Nâng cấp
Góp ý
Logo
Luyện đọc
Bài học
Sổ tay
Từ điển
Thi JLPT
Video
Nâng cấp
Góp ý
Todaii Japanese
Switch language – current: vi
Logo Japanese
[email protected]
(+84) 865 924 966
315 Truong Chinh, Ha Noi
www.todaiinews.com
DMCA.com Protection Status

Về Todaii Japanese

Câu chuyện thương hiệuCâu hỏi thường gặpHướng dẫn sử dụngQuy định & Chính sáchThông tin hoàn tiền

Hệ thống social

Logo facebookLogo instagram

Phiên bản ứng dụng

AppstoreGoogle play

Ứng dụng khác

Todaii German
Todaii English
Todaii Chinese
Todaii Korean
DMCA.com Protection Status

Bản quyền thuộc về công ty cổ phần công nghệ eUp

Copyright@2026

Từ điển

Chi tiết từ

烏桓

[うがん]
漢代, 中国北辺にいたモンゴル系の遊牧民族。 東胡の一派で, 匈奴(キヨウド)に服属。 のち後漢に帰し, 後漢末に強盛となった。 207年, 魏(ギ)の曹操(ソウソウ)に大敗。

Từ liên quan

護烏桓校尉

護烏桓校尉(ごうがんこうい)は、中国の前漢に設置された官職で、おもに烏桓族を管轄する軍政務官。漢にならい、魏も設置した。秩石は二千石。節を擁し、下僚に一名、司馬二名(各秩石六百石)いる。『三国志』では護烏丸校尉と表記。 護烏桓校尉を初めて設置したのは、前漢の武帝の時代である。

烏

(1)スズメ目カラス科の鳥のうち, 大形でくちばしが大きく, 全体に黒色のものをいう。 日本ではハシブトガラスとハシボソガラスが全国に普通。 全長50~60センチメートルで, 羽には光沢がある。 田園や人家近くにすみ, 雑食性で何でも食べる。 古くから, 神意を伝える霊鳥とされたが, 現在は凶兆を告げる鳥と考えられることが多い。 (2)〔カラスの性質に似通うので〕 (ア)口やかましい人。 (イ)物忘れのひどい人。 (ウ)意地汚い人。 (エ)うろついている人。 「旅~」 <i>~が鵜(ウ)の真似(マネ)</i> ⇒ 鵜の真似をする烏(「鵜」の句項目) <i>~に反哺(ハンポ)の孝あり</i> 〔「小爾雅(広鳥)」より。 烏が成長ののち, 親鳥の口に餌を含ませて養育の恩に報いるということから〕 子が親に孝行することのたとえ。 <i>~の頭(カシラ)白く、馬(ウマ)角(ツノ)を生ず</i> ⇒ 烏の頭白くなる <i>~の頭(カシラ)白くなる</i> 〔秦(シン)に捕らえられた燕(エン)の大子丹が帰郷を願い出たとき, 秦王が, 烏の頭が白くなり馬に角が生えたら許してやろうと言ったという「史記(刺客列伝賛注)」などの故事から〕 ありえないことのたとえ。 烏頭変毛。 <i>~の行水(ギヨウズイ)</i> 入浴時間の短いたとえ。 <i>~の雌雄(シユウ)</i> ⇒ 誰か烏の雌雄を知らん(「誰」の句項目) <i>~の鳴かぬ日はあれど</i> 毎日必ず何かが行われることを強調していう語。 「~, 交通事故のない日はない」 <i>~を鷺(サギ)</i> ⇒ 鷺を烏(「鷺」の句項目)

盤桓

(1)あちらこちら歩きまわること。 徘徊すること。 「塁(ソコ)を出でて~し, 壁(ソコ)に入つて跋扈(バツコ)す/三教指帰」 (2)先に進まずにとどまること。 「一日島内に~して湖上の風景を望み/春窓綺話(早苗・逍遥・為之)」

桓雄

吉田敦彦『日本神話の源流』講談社〈講談社現代新書〉、1976年。  ^ B・R・マイヤーズ(英語版) (2012). 最純潔的種族:北韓人眼中的北韓人. 台北:臉譜出版社. ISBN 9789862352151  ^ 金思燁『完訳 三国遺事』明石書店、1997年11月15日。ISBN 978-4750309927。 

桓雲

充たそうと考えた。あちこちで法を曲げて、人々を罪に陥れて徴集した。人々は皆、怨みを抱いた。しかし、兄の征西大将軍桓温が実権を握っていたため、役人が弾劾することはなかった。 升平4年(360年)に亡くなった。平南将軍を贈され、貞と諡された。子の桓序が後を嗣ぎ、官職は宣城内史までに至った。 桓彝

桓温

た雌牛にも劣ったという。魏武(曹操)が荊州に入ると、兵士たちにその大牛を食べさせたそうだ」と言い、暗に袁宏を大牛に例えたので、人々は青ざめた。 桓温が荊州刺史であった時、江漢地区で善政を敷こうと思い、百姓に酷刑を科すのは良くないと考えていた。ある令史が杖刑を受けたが、木棒でただ官服を擦った

陳桓

381年)、雲南征討に従い、胡海・郭英とともに5万の軍を率いて、永寧から烏撒に進軍した。狭隘険阻な道を赤河から進軍して、烏撒の諸族と決戦して、これを敗走させた。芒部の首長を撃破し、元の右丞の実卜を撃退し、烏撒に築城した。東川烏蒙の諸族を降し、大理に進軍して攻略した。汝寧・靖寧の諸州邑を平定した。洪

桓宣

和解すれば、則ち忠勲を立てて富貴を保てよう。もし固執して守るならば、さらに猛将を続々と向かわせる。卿らは烏合の衆、城で守るのも窮することになる。北は強賊らが伺い、南は国家が攻めてくる。万に一つの勝ちもない。善き決断を願う」と説いた。 樊雅は桓宣と酒を酌み交わし、友の契りを結んだ。樊雅は子を桓宣ととも

朱桓

らを指揮させて複数路から船に乗り朱桓軍の家族らがいる中洲を攻撃させた。手元に5000ほどの兵しか残らない劣勢の状態での会戦を余儀なくされるが、朱桓は「戦というものは兵力ではなく指揮官の質によって勝敗が決まるものだ。俺と曹丕では俺の方が遥かに優れているし、まして

桓王

叔父に姫烈、姫狐(太子洩父の弟)がいる。 即位した後、諸侯の力を弱め、相対的に王権を強化する政策を実行した。また周領と鄭の領地が接しており、鄭が境界線を越えて黍(稷、キビ)を収穫したことから、族祖父(祖父の又従弟)にあたる鄭の荘公を卿士の職位より罷免し、これに不満を持った荘公は一切朝見を行わなくなり、周と鄭の

孫桓

訪れたとき、京城で孫桓と対面したことがあったため、窮地をようやく脱した末に嘆息し「私がかつて呉を頼ったとき、まだ子供に過ぎなかった孫桓如きに、今はこれ程までに追いつめられるとは」と言ったという。その後、夷陵での功績により建武将軍・丹徒侯となった。牛渚督に任じられるが、横江塢を築いている際に急死した。

桓譚

『漢書』揚雄伝賛「今診子之書文義至深、而論不詭於聖人」 ^ 『三国志』魏書・武帝紀注「張華『博物志』曰:漢世(中略)桓譚・蔡邕善音楽」 ^ 『漢書』礼楽志「今漢郊廟詩歌、未有祖宗之事。八音調均又不協於鐘律。而内有掖庭材人、外有上林楽府、皆以鄭声施於朝廷。(中略)哀帝自為定陶王時疾之、又性不好音。及即位、下詔曰「(中略)孔子不云乎、『放鄭声、鄭声淫。』其罷楽府官。」」

桓彝

彝を破り、宣城に進攻した。桓彝は広徳に退いた。韓晃は周囲の諸県を掠奪して帰還した。 咸和3年(328年)5月、桓彝は建康が陥落したと聞き、涙を流して歎き悲しみ、涇県に進んで屯した。この頃、州郡の多くが蘇峻に降伏していた。裨恵は蘇峻に使いを送り、友好を結んで災いを避けるように説いた。桓彝は「私は国か

桓因

ることから、檀君の説話を荒唐無稽と評している。ちなみに、仏教は372年に朝鮮半島に伝えられた。 [脚注の使い方] ^ 帝釋=帝釋天の別名が「釋提桓因」であり、ここに登場する桓因が「釋提桓因」のことであることがわかる。帝釈天はインド神話の神「インドラ」[indraḥ]がその起源で漢訳仏典では「因陀羅」

桓叔

、その在位中に一切の地位も食邑も与えられなかった。しかし、成師もその予言を知っており、兄の文侯を刺激しないよう常に控えめな態度を取り続けた。彼のその恭謙な態度や才能に魅かれる大夫や国民も多く、成師は着実にその支持を集めていた。 そして紀元前746年に文侯が没し、息子の昭侯が即位すると、晋の大夫達は昭

桓嘉

桓 嘉(かん か、? - 嘉平4年12月23日(253年2月8日))は、中国三国時代の魏の武将。父は桓階。子は桓翊。妻は升遷亭公主。 魏の曹丕の時代、安楽郷侯の父・桓階が病没。嗣子の桓佑も早逝していたため、庶子である桓嘉がその後を継いだ。 嘉平4年、楽安太守の官にあった桓嘉は、東興の戦いに従軍。魏軍

桓範

桓 範(かん はん、? - 249年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての武将、政治家、文学者。魏に仕えた。字は元則。豫州沛国の人。妻は仲長氏(仲長統の一族)。子は男子一人(名は不明)。『三国志』魏志「諸夏侯曹伝」などに記録がある。 建安年間の末期、朝廷の実権を握る曹操に仕え、丞相府に入った。沛

桓沖

を派遣している。しかし謝安に断られ、さらに謝安が戦略について何も語ろうとしなかったため、「大敵が今にも来るというのに、戦の経験の無い若者を駆り出して自分は遊んでいる。これでは我々は降参するしかない」と嘆息したという。淝水の戦いでは前秦軍の機先を制するために襄陽を攻めたが、前秦軍に押し留められた。

桓階

な他人の美点を後押しし、欠点を補強する行為があったという。 やがて尚書となり官吏の任用に当たった。曹仁が関羽に攻撃され窮地に陥ると、曹操は親征を考えた。しかし桓階は「曹仁殿や徐晃殿を信じておられるのなら、御自身で援軍を率い赴かれる