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Từ điển

Chi tiết từ

鼎

[かなえ]
(1)〔金瓮(カナヘ)の意〕
食物を煮るのに用いた金属の器。
→ 鼎
(2)〔夏の禹王(ウオウ)が九鼎を作り, 王室の宝とした故事から〕
王位。 また, 王位の象徴。
<i>~の軽重(ケイチヨウ)を問う</i>
〔「左氏伝(宣公三年)」より。 晋の景公を破って心のおごった楚の荘王が, 無礼にも周の宝器たる九鼎の大小・軽重を問うた故事による〕
統治者を軽んじ, これを滅ぼして天下を取ろうとする。 人の実力を疑って, その地位をくつがえそうとする。 また, 人の能力を疑う。
<i>~の沸(ワ)くが如(ゴト)し</i>
〔漢書(霍光伝)〕
鼎の中の湯が煮え立つように, 騒がしくておさまりがつかない。 鼎沸(テイフツ)。
<i>~を扛(ア)・ぐ</i>
〔史記(項羽本紀)〕
きわめて力が強いことの形容。
「身長一丈(ヒトツエ)力能(ヨ)く~・げたまふ/日本書紀(景行訓)」

鼎

[てい]
古代中国の煮炊き用の器の一。 一般に円形で三足, また長方形で四足, 両耳があり, 殷周時代の青銅製の祭器が有名。 伝説に夏の禹(ウ)王が九鼎をつくり王位継承の宝器としたという。
→ かなえ

Từ liên quan

鼎談

(鼎(カナエ)の足のように)三人が向かい合って話し合うこと。 「経済動向について~する」

鼎座

三人が向かい合って座ること。 「~して語り合う」

鼎坐

三人が向かい合って座ること。 「~して語り合う」

鼎立

(鼎(カナエ)の足のように)三者が互いに対立していること。 「党内には三派が~している」

鼎部

康熙字典214部首では206番目に置かれる(13画の2番目、亥集の20番目)。 「鼎」字は中国古代における器物の一種である鼎を意味する。三足両耳を備え、食物を煮炊きする食器として、また功績を銘に刻んだりする礼器として用いられた。 伝説によると夏王朝の禹は九州を象徴する九鼎を鋳造したとされ、歴

九鼎

九鼎(きゅうてい)は、古代中国におけるレガリア。 鼎(かなえ)は鍋釜に相当する古代中国の三本足の金属器具で祭器としても利用された。伝説によれば夏の始祖禹が九州(中国全土)に命じて集めさせた青銅をもって鋳造したものという(『史記』封禅書)。夏の最後の君主の履癸(桀)が殷の天乙(湯王)に滅ぼされたのちは

宝鼎

宝鼎(ほうてい)は、三国時代、呉の末帝孫晧の治世に行われた3番目の元号。 266年 - 269年。 プロジェクト 紀年法 元年8月:甘露2年を宝鼎と改元。 4年10月:建衡と改元。 元号一覧 (中国)

元鼎

のを機に、これを「元鼎」とし、それ以前に関しても遡って、初元を「建元」、二元を「元光」、三元を「元朔」、四元を「元狩」と名付けた。これにより、元号制が始まった。 プロジェクト 紀年法 2年:桑弘羊が大農丞となり、均輸法が実施される。 3年4月:常山王劉舜薨去。 4年2月:中山王劉勝薨去。

曹鼎

沙水自南枝分,北逕譙城西,而北注濄。濄水四周城側,城南有曹嵩冢,冢北有碑,碑北有廟堂,餘基尚存,柱礎仍在。廟北有二石闕雙峙,高一丈六尺,榱櫨及柱皆雕鏤雲矩,上罦罳已碎,闕北有圭碑,題云:《漢故中常侍長樂太僕特進費亭侯曹君之碑》,延熹三年立。碑陰又刊詔策二,碑文同。夾碑東西,列對兩石馬,高八尺五寸,石

神鼎

神鼎(しんてい)は、五胡十六国時代、後涼の君主呂隆の治世で使用された元号である。401年2月 - 403年8月。 プロジェクト 紀年法 『中国歴代年号考』李崇智(中華書局 2004年)

左鼎

1453年(景泰4年)3月、左鼎は軍政を修め、成憲を遵守し、官の冗員を省くよう求める四事の上疏をおこなった。4月、同僚とともに救弊恤民の七事を言上した。左鼎は官にあっては清廉勤勉で知られ、御史の練綱と併称されて、「左鼎の手、練綱の口」といわれた。のちに広東右参政として出向した。

福鼎市

1739年(乾隆4年)に霞浦県より分割され福鼎県が設置される。 福鼎白茶 下部に3街道、10鎮、2郷、1民族郷を管轄する 街道 桐山街道、桐城街道、山前街道 鎮 貫嶺鎮、前岐鎮、沙埕鎮、店下鎮、太姥山鎮(台山島)、磻渓鎮、白琳鎮、点頭鎮、管陽鎮、嵛山鎮 郷 畳石郷、佳陽郷 民族郷 硤門シェ族郷 中国国家鉄路集団 温福線 福鼎駅 太姥山駅

鼎城区

鼎城区(ていじょう-く)は中華人民共和国湖南省常徳市に位置する市轄区。 街道:玉霞街道、紅雲街道、郭家鋪街道、斗姆湖街道、竜泉街道、金鳳街道、灌渓街道 鎮:蒿子港鎮、中河口鎮、十美堂鎮、牛鼻灘鎮、韓公渡鎮、石公橋鎮、鎮徳橋鎮、周家店鎮、双橋坪鎮、蔡家崗鎮、草坪鎮、石門橋鎮、謝家鋪鎮、黄土店鎮、堯天坪鎮、石板灘鎮、花岩渓鎮、祝豊鎮

劉鼎 (元)

「頃有盗柵歴城、南山中為民患、郡邑不能制。公独従一二人、直登其柵、喩以福禍、賊歓従公降、以功授忠顕校尉・歴城令。境有大沢、号遥墻濼、豪民李拠其地為姦、徴令不行。公一日往濼中、伏壮士道傍、以一老蹩者自随至其門。門者識公趨入、公随以入、李方袒跣臥堂上、使一女子扇見、公愕然。公徐曰『適以公事過此、故来相訪』。李喜起迎労命酒、酒飲設食、食

鼎金城

は広瀬旭荘に就いて学んだ。画の研鑽に精励し岡田半江や金子雪操の画風を調和させ独自の画風を確立した。半江は金城の若い頃の作品を見て「鼎氏に子有り、春嶽瞑すべし。」と嘆じたという。浪華では田能村直入と並称されるほど画名が高かった。門下に森琴石などがいる。 享年53。墓所は福島妙徳寺にある。墓碑銘は橋本香

鹿鼎記

族のため活動している。双児とは義兄妹の仲。 沐剣屏(もく けんぺい) 沐英の子孫で、沐天波の娘である。沐王府の郡主(お姫様)。世間にうとく、男女のこともよく判っていなかった。 沐剣声(もく けんせい) 沐剣屏の兄。沐王府を取り仕切る。 方怡(ほう い) 沐王府に所属。のち、「豹胎易筋丸」を呑まされ、神龍教の教徒となる。

潘鼎新

潘 鼎新(はん ていしん、Pān Dǐngxīn、1828年 - 1888年)は、清末の官僚。字は琴軒。安徽省廬江県広寒郷出身。後に肥西県三河に移った。 道光29年(1849年)に挙人となった。郷里で団練を組織し、太平天国の鎮圧に参加した。その軍は「鼎字営」と呼ばれ、曽国藩から戦いぶりについて賞賛を

原石鼎

独な生活を送ったことで俳人としての感性が涵養され、この頃の作に有名なものが多い。虚子は『進むべき俳句の道』(1915年)において、その作風を「豪華、跌宕(てっとう、物事に拘らないこと)」と評した。山本健吉は「頂上や」の句について、季語や主観語でもないものを初語の「や」止めに用いた無造作さ、「殊に」と