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單字詳情

三条実親

を務めることになった際、経光は実親の許に参って作法を習うなど、経光は数々実親を訪ねており、親交があった。建長5年(1253年)出家、弘長3年(1263年)薨去。享年69。 ※以下、註釈の無いものは『公卿補任』の記載に従う。 建久10年(1199年)正月15日:従五位下に叙す(女御琮子給)。

相關單字

正親町三条実義

正親町三条 実義(おおぎまちさんじょう さねよし)は、江戸時代後期の公卿。権中納言・正親町三条公則の子。官位は従三位・権中納言。正親町三条家26代。 寛政11年(1799年)叙爵され、以降累進して侍従・右近衛少将・左近衛権中将・参議を経て、文政元年(1818年)には従三位となり公卿に列する。同年に踏

正親町三条実有

正親町三条 実有(おおぎまちさんじょう さねよし)は、安土桃山時代後期から江戸時代前期の公卿。官位は正二位・権大納言。初名は実助(さねすけ)。 文禄3年(1594年)叙爵。その後、侍従・右近衛少将・阿波権介・右近衛中将・蔵人頭をへて、慶長17年(1612年)に参議となり、公卿に列する。その後、権中

正親町三条実愛

同年の八月十八日の政変で朝廷に復帰した後は、薩摩藩に接触して討幕派公卿の一人として朝廷を主動した。明治元年(1868年)に新政府の議定、同2年(1869年)には刑部卿に就任。その後も内国事務総督、教部卿等などを歴任した。明治3年(1871年)12月、家名を嵯峨に改姓。明治13年(1880年)、勲一等旭日大綬章。明治16年(1883年

正親町三条実躬

1287年(弘安10年)、幕府が後宇多天皇から熈仁親王への皇位交代を申し入れて来た際、その横暴を「末代作法口惜事也」(末代の作法、口惜しき事なり)と歎じたことがよく知られている。 父:正親町三条公貫 母:藤原為経の娘 妻:聖海の娘 男子:正親町三条公秀(1285-1364) 女子:光明天皇後宮 養子:正親町三条公躬(正応3(1290)年

正親町三条実昭

さねあき)は、江戸時代前期の公卿。官位は従三位・参議。初名は季成(すえなり)。 寛永8年(1631年)叙爵。刑部大輔をつとめていたが、慶安2年(1649年)、前年に薨去した兄公高の養子として正親町三条家を継ぐこととなった。右近衛少将・右近衛中将を経て、明暦元年(1655年)従三位参議となり

正親町三条実継

文和4年(1355年)12月8日、正二位に昇叙。 延文5年(1360年)12月28日、母の喪に服す。 康安元年(1361年)5月14日、復任する。 貞治2年(1363年)8月2日、父の喪に服す。同年11月18日には復任した。 貞治4年(1365年)12月30日、権大納言を辞した。

正親町三条実仲

実躬は文永元年(1264年)の生まれであるから、実仲を公貫の長男とするのが正しいであろう。生母の出自の差により庶嫡が決められたと考えられる。 実仲が生を受けた家系は公氏以来閑院流三条家の庶流として続いてきたが、「正親町三条」の家名を厳密に適応させるとすれば光厳院の外戚となった公秀以降の三条家である

正親町三条実望

妻:今川義忠の娘 男子:正親町三条公兄(1494年 - 1578年) 生母不詳 女子:西園寺実宣室 ^ 山田康弘『戦国期室町幕府と将軍』吉川弘文館、2000年、102-106頁。ISBN 978-4-642-02797-7。  黒田基樹・編著『今川氏親 シリーズ・中世関東武士の研究』(戎光祥出版、2019年)

正親町三条実興

正親町三条 実興(おおぎまちさんじょう さねおき)は、室町時代後期の公卿。権大納言・正親町三条公治の子。官位は正四位上・参議。後花園天皇(102代)・後土御門天皇(103代)の二帝に亘り仕えた。 長禄2年(1458年)叙爵し、以降累進して侍従・右近衛権少将・下野権介・右近衛中将・蔵人頭を経て、文明

正親町三条実雅

(1441年)6月24日に発生した嘉吉の乱では、赤松満祐邸にて殺害された義教に陪席しており、将軍が討たれた際には果敢にも赤松氏から将軍に献上された金覆輪の太刀をつかみ防戦したものの、斬られて卒倒し、数箇所の傷を負った。 父:正親町三条公雅(1384-1427) 母:家女房 妻:不詳 男子:正親町三条公綱

三条西実条

五男:公紀(堀尾泰長)又は堀尾右京- 子に清水谷実業、押小路公音 家女房の子女 嫡男:三条西公勝 二男武者小路公種 - 武者小路家の祖 四男:西川(芳心院) 六男:光深(修南院大和尚) 女子:最上義智後室 女子:浄心院 - 堀親昌後室 女子:清雲院(荒尾但馬室) 女子:桂昌院

三条実重

権中納言に任ぜられる。 弘安8年(1285年)2月20日、帯剣を勅授される。 正応元年(1288年)7月11日、権大納言に任ぜられるが翌日12日、母の喪に服す。 正応4年(1291年)3月25日、右近衛大将を兼ねる。 正応5年(1292年)5月15日、右大将を止められるが、同年閏6月16日には左近衛

三条実教

実教の死後、三条家はいったん断絶し、永禄12年(1569年)に至って正親町三条家の分家三条西家の当主・実枝の子である実綱が再興した。 三条家の当主は、実行→公教→実房→公房→…と「公」と「実」の通字を1代ごとに交互に付けていく慣行であり、実教の次の当主が実綱を名乗ったことは、実教

三条実房

90番 花留客といへる心をよみ侍りける 散りかかる花のにしきは着たれども帰らんことぞ忘られにける 140番 暮見卯花といへる心をよみ侍りける 夕月夜ほのめく影も卯の花の咲けるわたりはさやけかりけり 362番 清見潟関にとまらで行く船はあらしのさそふ木の葉なりけり 458番 跡もたえしをりも雪にうづもれて帰る山路にまどひぬるかな

三条実忠

康永4年(1345年)9月8日、内大臣を辞退した。 貞和2年(1346年)1月6日、従一位に叙せられる。 貞和3年(1347年)1月4日、虚労により薨去。 父:三条実親(1259-1329) 母:家女房 養父:三条公茂(1284-1324) 妻:左中将藤原公直の娘 男子:三条公忠(1324-1384)

三条実美

また政策には通じておらず、無定見であったと指摘している。「こう申すのは、はばかり多いことであるが、三条公はまったく無定見であらせられた。今日ある者から意見を申し上げると、その日はその気になっていられるが、明日になってまたほかの者から意見を申し上げると、やはりまたその気

三条実起

三条 実起(さんじょう さねおき)は、江戸時代中期から後期にかけての公卿。右大臣・三条季晴の子。母は彦根藩主井伊直定の娘・歌智。官位は従一位・右大臣。三条家27代当主。主に桃園天皇(116代)から光格天皇(119代)に亘って朝廷に仕えた。 宝暦7年(1757年)に従五位上に叙爵。その後清華家三条家

三条実春

三条 実春(三條 實春、さんじょう さねはる、1913年〈大正2年〉3月2日 - 1990年〈平成2年〉6月30日)は、日本の神職、華族。貴族院公爵議員。 父三条公輝、母静子(正親町実正二女)の長男として生まれる。1938年、東京帝国大学文学部を卒業。 1938年、厚生省体力局企画課嘱託となる。以

三条実量

三条 実量(さんじょう さねかず)は、室町時代前期から中期にかけての公卿。右大臣・三条公冬の子。官位は従一位・左大臣。 永享元年(1429年)以前 - 永享4年3月(1432年4月) 左近衛中将 永享3年(1431年) - 永享4年3月(1432年4月) 越中権守 永享4年3月(1432年4月) -