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單字詳情

庾文君

崩ずると、文君が皇太后となって垂簾聴政した。 咸和3年(328年)、蘇峻が蘇峻の乱を起こし、2月に皇宮が陥落した。文君は乱兵の中で多くの辱めを受け、3月、悲慟のうちに崩じた。享年は32。穆と諡された。 後に姪(庾冰の娘)の庾道憐が成帝の子、廃帝司馬奕の皇后になった。 『晋書』巻32 列伝第2 后妃下

相關單字

庾翼

して桓温を後任に据え、庾翼の持っていた強大な軍権をほぼそのまま桓温に引き継がせた。 東晋国内では書家としても著名であり「故史従事帖」などの作がある。草隷に優れ、当時においては王羲之と並ぶほどの人気があったという。『書品』では「中之上」に格付けされる。 桓温については若年より目を掛けており、明帝(司馬

庾信

5年)、北周と陳との間に和睦が成立し、長安に抑留されていた江南の人々の帰国が実現したが、庾信と王褒の2人のみは、その文才が惜しまれ、引き続き長安に留め置かれた。これに追い討ちをかけるように、翌建徳5年(576年)、王褒が64歳で没する。さらに大象2年(580年)、外戚の楊堅(後の隋の文帝)が北周の実

庾冰

庾翼の後援として送り出され、強大な軍権を得ると引き換えに中央から離れることとなる。そして翌建元2年(344年)、康帝が急病により危篤となると庾冰は先ごろ幼君を不適格とした手前、後継者を友好の有る会稽王司馬昱にしようと画策したが、中書監何充はわずか2歳の康帝の実子司馬聃を推し、康帝もこれを承諾して司

庾悦

承制の下で、庾悦は寧遠将軍・安遠護軍・武陵国内史となった。病のため職を去った。鎮軍府に召されて諮議参軍となり、車騎従事中郎に転じた。劉毅に撫軍司馬となるよう請われたが、就任しなかった。車騎中軍司馬に転じた。 義熙5年(409年)、南燕に対する北伐に従軍した。義熙6年(410年)、盧循が建康に迫ると、

庾岳

た。庾岳の兄の子の庾路が罪に落ちて、親族の多くは処刑されたが、庾岳の父子は特別に許された。 407年(天賜4年)、南宮に邸のための土地を賜り、庾岳は家僮を率いてこれを利用した。庾岳の衣服は鮮麗で、挙動や風采は人君に擬したふるまいであると候官に告発された。道武帝は病床にあって猜疑心が強くなっていたため

庾詵

中大通4年(532年)、庾詵が昼寝をしていたところ、突然に驚いて目を覚まし、「願公が再び来た。長く生きることはできまい」といった。言い終えると亡くなった。 庾詵が死去すると、部屋にいた人々は「上行先生はすでに弥陀の浄域に生まれ変わった」という声を空中から聞いた。 『梁書』巻51 列伝第45 『南史』巻76 列伝第66

庾持

建康県令を兼ねた。旧友の陳蒨が呉興郡太守となると、庾持はその下で呉興郡丞となり、郡の文書をつかさどった。陳蒨が張彪を打倒して会稽に駐屯すると、庾持は監臨海郡をつとめた。郡での収奪がひどく民情が悪化して、反乱軍に100日ほど身柄を拘束された。陳蒨が劉澄を派遣して臨海郡の乱を鎮圧すると、庾持は解放された。

庾亮

えればまた生えてくる」という理由で残すなど、倹約家であった陶侃を感心させた。 これらのことから、一転して庾亮に好意を抱くようになった陶侃は、息子の陶瞻が蘇峻に殺されたこともあって、彼と共に反乱鎮圧に協力することを応諾、これによって庾亮は蘇峻のよる石頭城に逆襲をかけ、咸和4年(329年)、ついに反乱を平定することに成功した。

昌文君

王の公子という。姓は羋、氏は熊。名は顛。 秦の人質であった兄の太子完が黄歇の機転で昭襄王に無断で楚に帰国した。激怒した昭襄王は黄歇の死を賭した態度に感服したが、代わりに太子完の人質時代に、頃襄王の側室がもうけた公子顛を人質として差し出したことで、丸く治まったという。

卓文君

相如の恋愛譚を踏まえたものであるとされる。 [脚注の使い方] ^ 『西京雑記』では、司馬相如と会ったときは17歳であったとされている。 ^ 「爐」は酒甕の台座のこと。 ^ a b c d e f g h 井波律子『中国人物伝 第Ⅰ巻 乱世から大帝国へ 春秋戦国―秦・漢』岩波書店、2014年、222-224頁。

金庾信

8年に高句麗と百済の麗済同盟に対抗するために唐に救援を求める。660年、唐と共同で百済へ進軍し(唐・新羅の同盟)、黄山伐の戦い(英語版)で百済の将軍階伯を激戦の末に破り、同年、百済を滅ぼした。その戦中、何度か蘇定方とトラブルを起こす。663年に白村江の戦いで倭と百済の残党勢力を排除した後、668年に

庾肩吾

- 551年)は、南朝梁の官僚・文人。字は子慎、あるいは慎之。本貫は南陽郡新野県。兄は庾黔婁・庾於陵。 司徒主簿の庾易の子として生まれた。8歳で詩を賦すことができ、特に兄の庾於陵に愛された。晋安王蕭綱の下で晋安王常侍を初任とし、宣恵府行参軍に転じた。蕭綱が異動するたびに、肩吾はその府に属して従い、徐

庾黔婁

を棄てて家に帰り、家人を驚かせた。その大便の甘味苦味で病の進行の早さを知ることができると医者に聞くと、黔婁は父の便を取って舐め、その甘く滑らかな味に憂苦に沈んだという。その月の末に庾易が亡くなると、黔婁は礼の規定を超えた喪に服し、墓の傍に廬を立てて住んだ。中興元年(501年)、和帝が即位すると、鎮軍

庾曼倩

庾詵の子として生まれた。湘東王蕭繹が荊州刺史となると、曼倩は主簿として召し出され、中録事に転じた。後に諮議参軍に転じた。著書に『喪服儀』・『文字体例』・『荘老義疏』・『算経注』・『七曜暦術』があった。 子に庾季才があった。 ウィキソースに梁書/巻51の原文があります。 『梁書』巻51 列伝第45 『南史』巻76 列伝第66

庾承先

庾 承先(ゆ しょうせん、472年 - 531年)は、南朝梁の学者・隠者。字は子通。本貫は潁川郡鄢陵県。 若くして落ち着いた性格で志操堅固であり、言の是非を変えることがなかった。喜怒を顔色に表さず、他人にはその感情をうかがい知ることはできなかった。弱年のころに劉虯の学問を受け、記憶力が強く聡明博識で

庾於陵

朓や宗夬とともに群書を抜粋して編纂した。蕭子隆が建康に召還されると、於陵もまたもとの主簿として建康に送られた。延興元年(494年)、蕭子隆が宣城公蕭鸞の命により殺害されると、属僚たちは禍にかかるのを恐れてやって来る者もなかったが、於陵は宗夬とともに留まって、蕭子隆の葬儀を取り仕切った。建武2年(4

庾黔弼

の始祖で、先祖は、新羅初期に中国から新羅に帰化した庾荀悠である。 平州(黄海北道平山郡)出身の軍人。923年には女真族の懐柔策に手腕を発揮し、多くを帰附させた。925年には征西大将軍として後百済軍を攻撃し、大きな軍港を立てた。また936年には黒水、達姑、鉄勒などの女真族の精鋭騎兵を指揮して後百済軍を

文昌帝君

Wenchang)、別名・文昌神は、道教の神。学問や科挙を司る。 北斗七星の「天枢、天璇、天玑、天権」を総称して文昌宮と呼ぶが、功名・福禄・寿命などを司るとされたそれを神格化したもの。起源については黄帝の子孫の揮が文昌帝君になったという説もある。揮は周から元にかけて97回この世に生まれ、学問を志す者に尽くしたのち、道教の神

茂松庾氏

茂松庾氏(ムソンニュし、무송유씨)は、朝鮮の氏族の一つ。本貫は全羅北道高敞郡である。2015年の調査では、12,459人である。 庾氏(中国語版)は、中国に起源を持つ姓氏であり、茂松庾氏の始祖は、高麗太祖を支援して三韓統一に功績を挙げ、三重大匡統合三韓翊贊公臣に封ぜられた庾黔弼である。