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單字詳情

源義重

2年)1月29日の記述に頼朝未亡人北条政子が2代将軍頼家に対して、「故仁田入道上西(義重)は源家の重鎮であったが、その死去から20日もたっていないのに蹴鞠に興じるのは然るべからず」と叱責する記述がなされている。 慶長16年(1611年)3月22日、義重の子孫と称する徳川家康により、鎮守府将軍に任官される(贈官)。

相關單字

重源

(1121-1206) 鎌倉初期の浄土宗の僧。 俊乗房(シユンジヨウボウ)・南無阿弥陀仏と号す。 密教を学んだのち, 法然から浄土教を学び諸国を遊行。 三度入宋したといわれる。 東大寺再建のための大勧進職に任じられ, 天竺様式をとり入れた大仏殿を完成。 民衆の教化・救済, また架橋・築池などの土木事業にも尽くした。

源重之

源 重之(みなもと の しげゆき)は、平安時代中期の貴族・歌人。清和源氏、上野太守・貞元親王の孫で、三河守・源兼信の子。伯父の参議・源兼忠の養子。官位は従五位下・筑前権守。三十六歌仙の一人。 父・兼信が陸奥国安達郡に土着したことから、伯父・源兼忠の養子となった。

源重実

男子:源仲重 - 従五位下、備前守。 男子:源実 - 延暦寺の僧。 ^ 美濃国の河の辺に一の人あり。石に枕して流れに臨み、路を往還せず。ここに飲食は長く絶えたけれども、身体は皆暖かなり。散位源重実、狩猟してこの処に到り、弓をはだへもてその腹を推すに、その和なること生ける人の 膚のごとし。後日に尋ぬれどもある所を知らず。

源重光

958年)左近衛中将に転じる。播磨守、左京大夫、備中権守を歴任。応和4年(964年)参議に任ぜられ公卿に列し、宮内卿を兼ねる。康保2年(965年)伊勢権守を務め、康保4年(967年)正四位下に叙される。 右兵衛督を経て、安和元年(968年)従三位・播磨権守に叙任される。天禄3年(972年)に大蔵卿、

源重信

った縁で藤原道長に買い取られ、のちにその息子・頼通に伝えられて平等院となった。 修理大夫を務めていた頃、出家して仁和寺に住んでいた父・敦実親王のご機嫌伺いに訪問する際、往路は内裏の東側(東大宮大路)・北側(一条大路)、復路は内裏の西側(西大宮大路)・南側(二条大路)と、行き帰りの行路を利用して内裏

源重成

て落ち延びる。『平治物語』によると途中、美濃にて落人追討の一団に遭遇した際、義朝を逃した上で「我こそは源義朝なり」と名乗って自害した。その際に、身元が割れないようにするべく、自ら散々に顔面を傷つけた上で果てたという。 父:源重実 母:勾当大夫宗成女 妻:不詳 男子:光成 男子:重茂 男子:忠輔 男子:八島時清

源重遠

が、源頼朝のもとに参上。頼朝は累代の家人である重遠の志に感嘆し、重遠の舎弟十郎、並びに僧の蓮仁らに扶持を与えた。この時、重遠は平治の乱の後も源氏譜代の家人として平家に従わず、頼朝が平家打倒の兵を挙げたのを喜んだが、京の東国武士の乱暴は平家時代以上に酷く、そのために生活が苦しい

源重資

康和2年(1100年)正四位下・蔵人頭(頭弁)に叙任され、康和4年(1102年)に正四位上に昇叙。長治3年(1106年)に装束使を務めていたが、白馬節会の際に宣命のことで怠状を召されている。 嘉承元年(1106年)に63歳にして参議兼左大弁に任ぜられて公卿に列す。議政官として左大弁・勘解由長官を兼帯し、嘉承3年(1108

源義宗

若くして死去したが、戦死か病没かは不詳。兵庫允・左衛門少尉の官職に就任した(『尊卑分脈』)。また、甥の忠宗(次弟・義忠の子)が義宗の養子となっている。 『平泉志』巻之上(一関藩教成館學頭、高平眞藤編)によると、後三年の役の金沢柵の攻防の記事に、 「義家朝臣には所労に由り出陣叶はず。弟新羅三郎義光並に嫡子河内判官義忠軍を率て金澤を攻らる。」

源義経

文楽編・義経千本桜|文化デジタルライブラリー - 文化デジタルライブラリー ^ 『尊卑分脈』 ^ 滋賀県竜王町「義経元服のいわれ」 ^ a b 『玉葉』7月30日条 ^ 『玉葉』11月2日条 ^ 『玉葉』11月7日条 ^ 『玉葉』12月1日条 ^ a b 元木 2007. ^ a b 菱沼 2005. ^

源頼義

羽国の国守に援軍を派遣するよう依頼したが、当の出羽守・源斉頼は一向に援軍を派遣する気配を見せなかった。これを嘲笑うかのように安倍軍は奥六郡を思うままに支配し六郡の外を侵すことも度々であった。さらには先に安倍に寝返った藤原経清などは陸奥国内の諸郡に対して、赤符(国の徴符)ではなく白符(経清の私的な徴符

源義家

の官使の派遣を決定した事実も有る事から、『後二条師通記』にはこの戦争は「義家合戦」と私戦を臭わせる書き方がされている。 後三年の役において動員した兵は、石井進の国衙軍制の概念 にそって分類すれば、国守軍の「館の者共」、つまり受領国守の私的郎党として動員した近畿から美濃、そして相模国の武者

源義平

源 義平(みなもと の よしひら)は、平安時代末期の武将。源義朝の庶長子。通称は鎌倉悪源太(悪源太、鎌倉源太とも)。母は京都郊外の橋本の遊女 または三浦義明の娘 であり、源頼朝・義経らの異母兄にあたる。 久寿2年(1155年)、父・義朝が叔父・源義賢(義朝の異母弟、木曾義仲の父)と対立した際には義賢の居館武蔵国比企郡の大蔵館

源義国

久安5年(1149年)、義国の郎党、京洛において乱闘し、義国が責任を問われる。 久安6年(1150年)、右近衛大将大炊御門徳大寺実能と争い、実能の屋敷を焼き払い勅勘を蒙る。 久寿2年(1155年)、長男義重の上野国新田荘の新田館で死去。 諸司助→兵部丞→式部丞→従五位下・式部大夫→加賀介

源希義

の まれよし)は、平安時代末期の河内源氏の武将。源義朝の五男。源頼朝の同母弟で、同母姉妹に一条能保室の坊門姫がいる。 平安時代末の日記を用いた『清獬眼抄』の記事に、永暦元年(1160年)流刑時の希義が「年九」とある。計算すると生年は仁平2年(1152年)になる。 平治元年(1159年)の平治の乱で父兄が死亡した後、駿河国香貫(現

源義康

る八幡荘を相続した異母兄の義重は、父と共に上野国新田荘を開墾し新田氏の祖となる。義康は熱田大宮司藤原季範の養女(実孫)を娶り、河内源氏の同族源義朝と相聟の関係になり同盟を結んでいる。 康治元年(1142年)10月、鳥羽上皇が建立した安楽寿院に足利荘を寄進、義康は下司となった。久安の頃に上洛し、所領の

源義光

源 義光(みなもと の よしみつ)は、平安時代後期の武将。河内源氏の2代目棟梁である源頼義の三男。甲斐源氏初代当主。兄に源義家(八幡太郎)や源義綱(賀茂次郎)がいる。近江国の新羅明神(大津三井寺新羅善神堂)で元服したことから新羅三郎(しんらさぶろう)と称した。左兵衛尉、刑部丞、常陸介、甲斐守、刑部少

源義親

康和4年(1102年)、朝廷は義親を隠岐国へ配流とする。だが、義親は配所には赴かず、出雲国に渡って目代を殺害し、官物を奪取した。このため、いよいよ義家が自ら息子の追討へ赴かねばならない状況になったが、嘉承元年(1106年)に義家は死去した。

源義朝

とされ、義平の生母を同国橋本宿の遊女とする『尊卑分脈』の説、『平治物語』に登場する摂津国江口宿(現在の大阪府大阪市東淀川区)の遊女の娘とみられる「江口腹娘」など、遊女との間に子を設けたとする記述が多いが、これらの宿場はいずれも交通の要衝であり、「遊女」と称しても実際には単なる芸能民ではなく地元の有力者の子女であったとする説がある。