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單字詳情

裴枢

裴 枢(はい すう、841年 - 905年)は、唐末の人物。字は環中。本貫は河東郡聞喜県。 裴枢は、咸通12年(871年)、進士に登第し、藍田県尉となり、弘文館(中国語版)に勤務した。僖宗が入蜀する際に付き従い、殿中侍御史に抜擢された。 昭宗の龍紀元年(889年)、給事中となり、京兆尹へと転任した。

相關單字

枢

〔「くるる」の転〕 「くるる(枢)」に同じ。

枢

〔「と」は戸, 「まら」は男根の意〕 開き戸の, かまちの上下の端にある, 突き出た部分。 とぼそに差し入れて戸の開閉の用とする。

枢

(1)「くるる(枢){(1)}」に同じ。 (2)「枢戸(クルルド)」に同じ。 「群玉(ムラタマ)の~にくぎ鎖し固めとし/万葉 4390」

枢

「枢(クルル)」の転。

枢

〔戸臍(トボソ)の意〕 (1)開き戸のある部分の梁(ハリ)と敷居とにあけた小さい穴。 扉の, かまちの上下の端の突き出た部分(とまら)を差し入れて, 開き戸を回転させるように作った穴。 (2)とびら。 戸。 「奥山の松の~を稀にあけてまだ見ぬ花の顔を見るかな/源氏(若紫)」

枢

(1)扉を開閉する装置。 扉の端の上下に短い棒状の突起(とまら)をつけ, それを上下の枠の穴(とぼそ)にさしこんで回転するようにしたもの。 くろろ。 くるり。 (2)戸締まりのため, 戸の桟(サン)から敷居にさしこんでとめる木片, または金物。 くるるぎ。

裴嶷

東へ追いやられ、その威徳は遠方まで及びません。中原の動乱を救済するには、明公(慕容廆)といえども力不足です。今、諸部は各々軍備を擁しているとは言え、頑愚な連中の集まりですから、次第に蚕食していくべきです。これらを併合して領土を増やし、西方を平らげる足掛かりとしますように」と進言すると、慕容廆は「壮大

裴寂

貞観3年(629年)、沙門の法雅が人々を煽惑した妖乱に連座し、裴寂は免官の上、蒲州に放逐された。その後、監奴の讒言によって、静州に流された。その時、偶然にも山羌(異民族)が叛乱し、裴寂は家僮たちを統率して賊を平定した。その功によって入朝を赦された。同年に61歳で没した。 『旧唐書』巻57 『新唐書』巻88

裴矩

裴 矩(はい く、武定5年(547年) - 貞観元年(627年))は、隋から唐初にかけて活躍した功臣。字は弘大、敬と諡される。裴世矩とも。本貫は河東郡聞喜県。父の裴訥之(裴譲之・裴諏之の弟)は北斉に仕えた。 北周の大司馬であった楊堅(後の隋の文帝)に従った。開皇元年(581年)、隋が成立してからは、

裴潜

なった。曹操から、以前交流のあった劉備の才略を問われたため「中央にいたなら、人を乱すことはできても治めることはできません。しかし隙を突いて要害を守れば、一地方の主となるだけのものは持っています」と答えた。 北方に赴き、代郡太守を務めた。曹操は、郡で横暴な

裴宣

事異動が行われると、裴宣がこれを公布し、合戦の際の部隊の編成、戦後の論功行賞を担当し、梁山泊では無くてはならない大きな役割を担った。また、恰幅がよく上品な身なりをしていたので、役人に変装して計略に参加することもあった。 百八星集結後も引き続き軍政司を務め、官軍との戦いや、招安後の戦いでも引き続き、同

裴邃

裴邃(はい すい、生年不詳 - 525年)は、南朝斉から梁にかけての軍人・官僚。字は淵明。本貫は河東郡聞喜県。 裴仲穆の子として生まれた。若いころから文章を得意とし、『春秋左氏伝』を好んだ。斉の建武初年、蕭遙昌に召されて府主簿となった。蕭遙昌が寿陽の八公山廟に碑を立てると、裴邃

裴休

791年 孟州済源県(現在の河南省済源市)にて誕生 802年 父の裴粛が死去 822年 科挙に進士及第 828年 賢良方正能直言極諫科に甲科(首席)合格、右補闕に就任 830年 監察御史に就任 832年 史館修撰に就任 841年 江西観察使へ転任 843年 湖南観察使へ転任 847年

裴秀

裴 秀(はい しゅう、黄初5年(224年) - 泰始7年(271年)3月)は、中国三国時代から西晋の政治家・地理学者。魏・西晋に仕えた。字は季彦(きげん)。本貫は河東郡聞喜県。父は裴潜。子は裴濬・裴頠。弟は裴耽。妻は郭配(郭淮の弟)の娘。 幼くして学問を好み、8歳で文章を綴り、行いには気品と節義があ

裴憲

命を恭しく奉じ、ここに庶民を救ったのだ。束縛されていた人々はみな歓声を挙げ、道行く先々で喜び感謝した。二君(裴憲と荀綽)は威に驕る同悪であり、誠信が阻絶している。防風の戮(防風とは禹に誅殺された部族)が誰に帰そうとしているかが分からぬか」と責めた。裴憲は顔色を変えずに剛直に振る舞っていたが、涙を流す

裴頠

め、裴頠はこうした風潮を深く憂慮するようになった。元康7年(297年)には著書『崇有論』において「清談を行う者達は衒学的な文章で人々を惑わし、虚無を貴ぶ気風を形成している。これにより国家の大事が軽視され、実務が疎かとなり、職務に忠実な者が少なくなった。今の世では虚無を口にすれば『玄妙』と称えられ、官

裴植

曲げられ、同年8月に裴植は尚書左僕射の郭祚や都水使者の韋雋らとともに死刑に処された。享年は50。沙門の礼で嵩山の北側に葬られた。于忠が詔をいつわったことが知られて、裴植には朝野の同情論があった。正光年間に郭祚の名誉が回復されて追贈を受けると、裴植も封爵のみ追復

裴氏

分かれた。しかしながら、その譜系の源流を考えると、皆聞喜の裴氏に出ている。故に「天下に二裴なし」という言葉ができた。 裴氏一族は往古より以来、三晋の望族となり、なおかつ中国の歴史上でその名望明らかな名門貴族となった。裴氏一族は「秦漢より以来、六朝を経て盛んとなり、隋唐に至って全盛を迎えた。五代以後も、なお余勢を存していた。」

裴粲

太守や恒農郡太守を歴任した。後に陽固の糾弾を受けて免官された。 かつて裴粲は高陽王元雍に従わず、その恨みを買ったことがあったが、あるとき元雍が裴粲の挙止を見て気に入り、旧怨を解いた。裴粲は変事があっても落ち着きを失わなかったため、宣武帝はその態度に感心していた。ときに僕射の高肇が外戚として勢威をふる