仕事柄、東京など県外への出張が多いといいますが、出張先はもちろん、新潟に戻ってからの感染対策にも、気を配ってきたといいます。
ところが、去年の年末、都内への出張から戻った2日後に体調に異変を感じます。
「東京での出張中は除菌ティッシュや予備のマスクを常に持ち歩き、食事もほとんど店には入らず、ベンチで弁当を食べていました。新潟に戻ってからは従業員や家族と部屋を分け、2週間自主隔離をして過ごしました。でも東京から戻った2日後の12月22日に、ちょっと熱っぽさを感じたんです。『もしかして』と思ったんですが、これまでずっと大丈夫だったから『今回も大丈夫だろう』と。だけど熱が上がったり下がったりして、どんどん不安な気持ちになりました」
当初の診断は「軽症」も、間もなく容体は急変。 重度の息苦しさと高熱があらわれたといいます。 すぐに重い症状に対応できる別の病院に搬送されました。
ただ「サインしたことをまったく覚えていない」という大湊さん。 そのまま意識を失って人工呼吸器を装着、30日にはICU(集中治療室)に入りました。 意識を失っていた間は、首を絞められるような苦しさと悪夢にうなされ続けたといいます。 苦しくて、苦しくて、夢の中で何度も舌をかんで死にたいと考えたと話します。
家族も一度は死を覚悟したといいますが、集中治療室に入って11日目。ようやく意識が戻り、大湊さんは一命をとりとめました。 令和3年1月9日。 知らぬ間に新しい年が訪れていました。 その後のX線検査では、肺全体に広がる白い影が確認されました。 症状の悪化とともに肺の機能が大きく低下していたのです。 意識が戻ってからも思うように体は動きませんでした。 味覚障害などの後遺症にさいなまれる中、医療従事者の懸命な治療と気配りに支えられたと振り返ります。 大湊陽輔さん 「目が覚めた時、新しい年になっていると聞いてパニックになりました。体中の筋力が落ちて最初は立ち上がるのもやっとでしたが、入院中は病院の皆さんが本当によくしてくれて。看護師が1時間に1回ずつ、酸素量の調整に来てくれたり、24時間つけっぱなしの点滴の調整をしてくれたり。ドクターも忙しいのに毎日顔を見に来てくれて。私の命を引き戻してくれた神様のように感じています」
大湊陽輔さん 「感染したことを会社のホームページや自分のSNSで公表していたので、知人や友人から温かい言葉をたくさんいただきました。その一方で、友達から悲しい話も聞きました。『大湊さんの家の周囲を通ったら感染する』と言っていた人がいたとか、幼い子どもがいる親が病院に行って『うちの近所で感染者が出たんですけど、どうしたらいいですか』って聞いていたとか。怒りもありましたが『しょうがない』って、あきらめもありました。みんな知らないから怖いんですよ」
福祉の仕事を志す学生およそ100人(オンライン参加含む)を前に講演しました。 語ったのは新型コロナウイルスの恐ろしさ、基本的な感染対策を続けることの大切さ、そして感染した人が直面する現実です。 率直に話すことで新型コロナウイルスが感染した人に何をもたらすのか、知ってもらいたいと考えたのです。 講演に参加した学生たちから多くのメッセージが届きました。 「新型コロナウイルスについて理解することで差別や偏見も減らすことができる」 「まわりで感染した人が出ても『生きててありがとう』と言える人でいたい」 紙にびっしりとつづられたことばに大湊さんは「やってよかった」と笑顔で語りました。
後遺症かどうかははっきりとわかりませんが、6月に入ったころから腕や足に筋肉痛のような痛みを感じるようになったといいます。
「重い後遺症の症状が現れたらーーー」 考え出すと当時の息苦しさと恐怖がよみがえり、不安で眠れなくなることもあるといいます。 それでも、自身のつらい体験をきっかけに今、何が起きているのか、何が必要なのかを知ってもらい、考えてもらいたい。 そして、わからないことの多いウイルスだからこそ、みんなで立ち向かっていく意識を持つことが大事だと、大湊さんは力を込めます。 大湊陽輔さん 「まだわかっていないことが多いからこそ、腕の痛みや物忘れなど体に異変を感じるたびに『後遺症なのでは?』と怖くなります。一刻も早く症例が集まってウイルスの全容が解明されることを願っています。そして今も最前線で闘ってくれている医療従事者の思いに応えるためにも、私たちができる基本的な感染対策を今一度徹底して、みんなで闘っていける社会になってほしいと思います」 (取材:新潟放送局 記者 本間祥生)
突然の重症化 11日間意識不明に
肺全体に広がる白い影
待ち受けていた“強い風当たり”
自身のつらい体験を多くの人に伝えたい
今なお消えぬ恐怖 腕や足に痛みも