国枝くにえだ慎吾しんご（38）現役げんえき引退いんたい 車くるまいすテニス世界せかい王者おうじゃ

そのモチベーションの支ささえになったのが、「オレは最強さいきょうだ！」という、“魔法まほうのことば”です。

このことばを送おくったのは、国枝くにえだ選手せんしゅが全幅ぜんぷくの信頼しんらいを寄よせるオーストラリア人じんのメンタルトレーナー、アン・クインさんです。

2人にんの出会であいは2006年ねん1月つき、全豪オープンぜんごうお-ぷんの会場かいじょうでした。

当時とうじの国枝くにえだ選手せんしゅは、世界せかいランキング10位いに入はいるか入はいらないかの選手せんしゅ。それがたった10か月かげつで世界せかいランキング1位いに上り詰のぼりつめました。

いったい何なにがあったのか。

2人にんが出会であった日ひ、国枝くにえだ選手せんしゅはクインさんに「僕ぼくは世界一せかいいちになれると思おもいますか？」と尋たずねました。クインさんが「そう思おもう？」と尋たずね返かえすと、国枝くにえだ選手せんしゅは「なりたいです」と答こたえました。でも、クインさんの目めには、その姿すがたは「自分じぶん自身じしんを信しんじていないような感かんじ」に映うつったといいます。

そこで、こんなアドバイスを送おくりました。

「『なりたい』ではなく、『なる』と毎日まいにち言いいなさい」

さらに、クインさんは国枝くにえだ選手せんしゅを選手せんしゅ用ようの食堂しょくどうに案内あんないし、皆みなの前まえで「オレは最強さいきょうだ！」と叫さけぶよう促うながしました。こうして“魔法まほうのことば”を伝つたえたのです。

「慎吾しんご、鏡かがみの前まえで毎日まいにち『オレは最強さいきょうだ！』と言いい続つづけなさい」

国枝くにえだ選手せんしゅは、このことばとともに日々ひびのトレーニングを積み重つみかさね、10か月かげつ後ご、世界せかいランキング1位いになりました。

国枝くにえだ選手せんしゅは後ごに「試合しあいにすごく集中しゅうちゅうしやすくなったし、心こころが強つよくなるからこそ、練習れんしゅうもさらに強つよい強度きょうどで取り組とりくむようになった」と話はなしています。

国枝くにえだ選手せんしゅは試合しあい中ちゅう、弱気よわきになりそうな時ときにこのことばを思い出おもいだすため、白しろいテープに「俺おれは最強さいきょうだ！」と手書てがきで書かいてラケットの内側うちがわに貼はっています。

“魔法まほうのことば”と出会であってから15年ねん後ご、国枝くにえだ選手せんしゅにとって決けっして絶好調ぜっこうちょうではなかった、東京とうきょうパラリンピック。その時ときも、鏡かがみの前まえで何なん回かいも何なん回かいも言い聞いいきかせ、自信じしんが持もてなかったみずからを奮い立ふるいたたせたといいます。

「オレは最強さいきょうだ！」

この言葉ことばによって、国枝くにえだ慎吾しんごという最強さいきょうのプレーヤーが生み出うみだされ、最強さいきょうであり続つづけることができました。

安定あんていを捨すてて、実力じつりょく勝負しょうぶの世界せかいに飛び込とびこんだ理由りゆうは「障害しょうがい者しゃスポーツの普及ふきゅうと発展はってんのため、“みせながら勝かつ選手せんしゅ”になれるよう努力どりょくしたい」。

その言葉ことばどおり、自身じしんをレベルアップさせ、かつての車くるまいすテニスではほとんど見みられなかった強打きょうだのトップスピンのバックハンドを取り入とりいれたほか、ネットプレーを積極せっきょく的てきに取り入とりいれるなど競技きょうぎ力りょくの向上こうじょうに貢献こうけんしました。

“みせながら勝かつ選手せんしゅ”を体現たいげんすることでライバル選手せんしゅたちも進化しんかし、結果けっか的てきに競技きょうぎ全体ぜんたいのレベルを底上そこあげさせてきたのです。

そして何なによりも大おおきな影響えいきょうを与あたえたのが、次世代じせだいの選手せんしゅたちです。

16歳さいながら世界せかいランキングで上位じょういを争あらそう小田おだ凱人じん選手せんしゅは、9歳さいの時ときに左足ひだりあしに骨肉こつにく腫しゅが見みつかり、車くるまいす生活せいかつになった中なか、映像えいぞうで目めにした国枝くにえだ選手せんしゅの圧倒的あっとうてきな強つよさに刺激しげきを受うけ、車くるまいすテニスのプロ選手せんしゅになる道みちを選えらびました。現在げんざいは国枝くにえだ選手せんしゅと同おなじようにスポンサーの支援しえんを受うけ、プロ選手せんしゅとして活躍かつやくしています。

また、日本にっぽん女子じょしのエース、28歳さいの上地うえち結衣ゆい選手せんしゅは車くるまいすテニスを始はじめた11歳さいのころ、神戸こうべの大会たいかいで国枝くにえだ選手せんしゅのプレーを見みて「これが本物ほんものの車くるまいすテニスだ」と感銘かんめいを受うけたといいます。その後そのご、ロンドンパラリンピックに日本にっぽん代表だいひょうとして初はじめて出場しゅつじょうした頃ころには、車くるまいすテニスを辞やめ、何なにか別べつのことに挑戦ちょうせんしようと考かんがえていました。ところが、ロンドン大会たいかいで連覇れんぱを果はたした国枝くにえだ選手せんしゅの姿すがたを目の当まのあたりにして、競技きょうぎを続つづけることを決意けついしたといいます。

上地うえち選手せんしゅは以前いぜん、国枝くにえだ選手せんしゅの存在そんざいについてこう話はなしていました。

「常つねに進化しんかを続つづけている。本当ほんとうに勇気ゆうきをもらえるんです」

2016年ねん、32歳さいで出場しゅつじょうしたリオデジャネイロパラリンピックでのベスト8敗退はいたいがその1つです。

国枝くにえだ選手せんしゅは大会たいかいの5か月かげつ前まえ、痛いためていた右みぎひじのクリーニング手術しゅじゅつを受うけ、1か月かげつ後ごに実戦じっせん復帰ふっきを果はたすものの、万全ばんぜんにはほど遠ほどとおい状態じょうたい。そのまま、パラリンピックのシングルス3連覇れんぱがかかるリオ大会たいかいに出場しゅつじょうしました。

結果けっかは、海外かいがいの若手わかて選手せんしゅが台頭たいとうし、ダブルスで銅メダルどうめだるを手てにするのがやっとでした。

ひじの状態じょうたいは日常にちじょう生活せいかつにも影響えいきょうが出でるほど悪化あっかし、大会たいかい後ごは、「引退いんたい」の文字もじが頭あたまに浮うかんだといいます。

休養きゅうように入はいった国枝くにえだ選手せんしゅ。

「万全ばんぜんな状態じょうたいならまだ負まけないことを証明しょうめいしたい」と闘志とうしがよみがえり、4か月かげつ後ごに再ふたたびコートに立たちました。

まず取り組とりくんだのは、得意とくいのバックハンドの打うち方かたを変かえることです。強烈きょうれつなバックハンドがひじのけがの原因げんいんになっていたからです。

ひじに負担ふたんのかからないようラケットの握にぎり方かたやフォームを見直みなおし、なおかつショットの威力いりょくが落おちないようにする。これまで積み上つみあげてきたものをゼロに戻もどして、いちから新あらたなバックハンドを作り上つくりあげようとしました。

最初さいしょはボールがネットを越こえることすらできず、1万まん球きゅう以上いじょうを打うつ反復はんぷく練習れんしゅうを行おこなって体からだに慣なれさせることから始はじめました。

こうして新あらたなバックハンドが生うまれたのは、半年はんとし後ご。そしてリオ大会たいかいから1年ねん4か月かげつ後ごとなる2018年ねん1月つき。国枝くにえだ選手せんしゅは全豪オープンぜんごうお-ぷんで優勝ゆうしょうを果はたし、四よん大だい大会たいかいを2年ねん4か月かげつぶりに制せいして復活ふっかつを遂とげました。

競技きょうぎ人生じんせい最大さいだいの逆境ぎゃっきょうとそれを克服こくふくした経験けいけんは、競技きょうぎへの向き合むきあい方かたそのものを変かえ、キャリアの晩年ばんねんになお進化しんかを遂とげる強つよさをもたらしました。

国枝くにえだ選手せんしゅは、当時とうじをこう振り返ふりかえります。

「何なにのけがもなくプレーできる喜よろこびを再さい認識にんしきした。リオの後のちは、大会たいかいに負まけた帰かえりの飛行機ひこうきでも、体からださえ無事ぶじであればまた進すすめるし、どんどんチャレンジしていけると思おもえるようになった。変化へんかすることを以前いぜんよりも、さらに恐おそれなくなった」

そして、パラリンピックが開ひらかれるはずだった2020年ねん。国枝くにえだ選手せんしゅは年としの初はじめに行おこなわれる全豪オープンぜんごうお-ぷんを制せいし「自分じぶん史上しじょう一番いちばん強つよい」と胸むねを張はるほど、万全ばんぜんな仕上しあがりを見みせていました。

しかし、その直後ちょくご、新型しんがたコロナウイルスの感染かんせん拡大かくだいで大会たいかいの1年ねん延期えんきが決定けっていします。

「体からだも気持きもちも力ちからが抜ぬけた」

すでに30代だい後半こうはんを迎むかえていた国枝くにえだ選手せんしゅにとって、一度いちど合あわせた照準しょうじゅんを定さだめ直なおし、コンディションを維持いじすることは容易よういなことではありませんでした。

2021年ねんに入はいると思おもうようなショットが打うてず「体からだ」と「技わざ」への不安ふあんが「心こころ」にまで影かげを落おとし、眠ねむれない日々ひびが続つづきました。

時ときには睡眠すいみん薬やくに頼たよったり、ベッドに横よこたわり体たいだけでもなんとか休やすませようとしたりました。

大だい舞台ぶたいが刻こく一刻いっこくと近ちかづく中なか、6月つきの全豪オープンぜんごうお-ぷんは準じゅん優勝ゆうしょう、7月つきのウィンブルドン選手権せんしゅけんでは1回戦かいせん敗退はいたいと、金メダルきんめだるを争あらそうライバルたちに勝かち切きれない試合しあいが続つづきます。

「負まけるたびに何なにかを変かえたことで、糸いとが絡からまってしまい、何なにが正解せいかいかわからなくなってしまった。今度こんどは絡からまった糸いとをほどいて元もとに戻もどそうとしても、体からだが思い出おもいだせなくなっている。ウィンブルドンのころは、あと1か月かげつしかなく重圧じゅうあつだった。毎日まいにちのように昔むかしのビデオやノートをすべて見返みかえした。自分じぶんのテニスの経験けいけん上じょう、こんなに何なん年ねんも過去かこをさかのぼったことがないくらい、何なにかヒントはないかとあがき続つづけていた。時間じかんとの闘たたかいだった」

もがきにもがいた末すえ、光ひかりがようやく差し込さしこんだのは、東京とうきょうパラリンピックのわずか1週間しゅうかん前まえだったといいます。

一番いちばん大おおきかったのは、国枝くにえだ選手せんしゅの代名詞だいめいしで、攻撃こうげきを組み立くみたてる生命せいめい線せんともいえるバックハンドの復調ふくちょうでした。

2018年ねんから指導しどうしていた岩見いわみ亮あきらコーチと話し合はなしあい、この1年ねんに試行しこう錯誤さくごしてきた努力どりょくはすべて捨すて、最後さいごの1か月かげつで前まえの年としまでのバックハンドの打うち方かたに戻もどす決断けつだんをしました。

急きゅうな修正しゅうせいでしたが、大会たいかい1週間しゅうかん前まえになんとか形かたちにすることができました。

前まえの年としから人知ひとしれず苦くるしんできた腰痛ようつうも北嶋きたじま一紀かずのりトレーナーの献身けんしん的てきなサポートで少すこしずつ上向うわむいてきました。

なぜ、窮地きゅうちから活路かつろを見みいだすことができたのか。

3連覇れんぱのかかったリオデジャネイロパラリンピックで、ひじのけがと若手わかての台頭たいとうからベスト8敗退はいたいの屈辱くつじょくを味あじわいながら、その後そのご、どん底どんぞこからはい上あがって再ふたたび世界せかい1位いに返り咲かえりざいた、国枝くにえだ選手せんしゅ。挑戦ちょうせん者しゃとして再ふたたび頂点ちょうてんを目指めざし走はしり続つづけてきたこの5年ねんの経験けいけんが自みずからを救すくったといいます。

「リオでの挫折ざせつの経験けいけんが大おおきかった。『体からださえ無事ぶじであればまた進すすめるし、進すすめるならばどんどんチャレンジしていけるよね』と思おもえるようになった」

重圧じゅうあつ、不安ふあん。それを乗り越のりこえた国枝くにえだ選手せんしゅは、東京とうきょうのセンターコートで輝かがやきを放はなちました。

準々じゅんじゅん決勝けっしょうでは、15年ねんにわたって世界せかいのトップを争あらそってきた宿敵しゅくてき、フランスの50歳さいのウーデ選手せんしゅを2時間じかん18分ぶんの熱戦ねっせんの末すえに撃破げきは。

さらに準決勝じゅんけっしょうでは、国枝くにえだ選手せんしゅが「ことし1番ばんのテニス」と振り返ふりかえるほどの会心かいしんの内容ないようでリオ大会たいかいの金きんメダリスト、イギリスのリード選手せんしゅを寄よせつけませんでした。

そして、世界せかいランキング8位いのオランダのエフベリンク選手せんしゅとの決勝けっしょう。ネットダッシュに素早すばやいチェアワーク、大会たいかい直前ちょくぜんに感覚かんかくを取り戻とりもどしたバックハンドのダウンザラインと国枝くにえだ選手せんしゅの引き出ひきだしを全開ぜんかいにした試合しあいでした。

マッチポイント、相手あいてのショットがネットにかかった直後ちょくご。国枝くにえだ選手せんしゅは乾かわいたまめで硬かたくなった手てのひらで目頭めがしらを押おさえました。

スタッフに抱だきしめられ、涙なみだ。

日の丸ひのまるにうずくまって、また涙なみだ。

2大会たいかいぶりに金メダルきんめだるを奪還だっかんし、いつもの冷静れいせいさとは異ことなる感情かんじょうを高たかぶらせる姿すがたを見みせました。

「僕ぼくは、パラリンピックはスポーツとしての魅力みりょくにこだわりたい。そうすることで、人々ひとびとの考え方かんがえかたを変かえ、『障害しょうがいのある人ひとたちでもここまでできるんだ』とか『うわ、すごいな』と思おもうようになる。共生きょうせい社会しゃかいとか多様たよう性せいとか、そんなことばがいらなくなることが一番いちばんの理想りそう。世界せかいがもっとシンプルに、競技きょうぎを楽たのしめるようなパラリンピックになってほしい」

取材しゅざいに対にたいして常々つねづね「人々ひとびとを熱狂ねっきょうさせたい」と繰り返くりかえしてきた国枝くにえだ選手せんしゅ。

東京とうきょうパラリンピックで見みせたテニスと涙なみだには、2009年ねんにプロ宣言せんげんをして以来いらい、プレーを通をつうじて競技きょうぎの魅力みりょくを発信はっしんすることを使命しめいとしてきた国枝くにえだ選手せんしゅのきょうじが凝縮ぎょうしゅくされていました。