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一条実孝

^ a b 一条尊昭(読み)いちじょう そんしょうコトバンク ^ 河原 敏明『昭和の皇室をゆるがせた女性たち』(講談社、2004年)奈良・中宮寺の尼門跡、大学生との恋の逃避行―一条尊昭門跡の章 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。 上田正昭 『コンサイス人名事典日本編』

Related Words

一条実輝

明治天皇乃皇后止立世給比弖四十五年乃間後乃政乎聞食志潔久貞志伎御心乎以弖 天皇爾仕奉利給比天下萬民乃母止仰賀禮給比弖御仁慈深久殊爾世乃老弖子無久幼久志弖親無久病爾苦美飢寒由留人々乎深久厚久憐美育美給比弖其事業乎勸米給比奬氣給比志加婆皇御國乃人波申左久母更奈利外國人母坤德乃高久廣伎乎仰伎奉利尊毘奉良奴波無加利伎斯久弖先

一条内実

一条 内実(いちじょう なかさね)は、鎌倉時代後期の公卿。太政大臣・一条家経の子。一条家3代当主。官位は正二位・内大臣。 建治2年(1276年)に一条家経の子として誕生。正応元年(1288年)11月8日)に従三位となり、内大臣(1302年-1304年)を歴任。 嘉元2年(1304年)内覧に任じられた上で薨去。

一条実家

正安4年(1302年)11月4日、従一位に叙せられる。嘉元2年(1304年)12月17日、甥である内大臣一条内実が薨去。 嘉元3年(1305年)12月8日、大臣に准じて朝参すべしと宣下がある(准大臣)。同年閏12月21日、内大臣に任じられる。 嘉元4年(1306年)6月、上表したが、同年12月6日、太政大臣に任じられる。

一条実有

一条 実有(いちじょう さねあり)は、鎌倉時代前期の公卿。太政大臣・西園寺公経の子。一条を号す。官位は正二位・権大納言、左近衛大将。清水谷家の祖。西園寺実有とも。 以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。 建保2年(1214年)3月28日、叙爵。建保3年(1215年)1月13日、侍

一条実経

従一位に昇叙。12月14日 左大臣を辞す。 寛元5年(1247年)- 1月19日 摂政・内覧・藤氏長者を辞す。 弘長3年(1263年)- 8月12日 左大臣に還任。 文永2年(1265年)- 閏4月18日 再度の関白宣下。10月5日 左大臣を辞す。 文永4年(1267年)- 12月9日 関白を辞す。 弘安7年(1284年)-

一条実良

福、池田長準の室 養子 男子:一条忠貞 - 醍醐忠順三男 京都の祇園祭の山鉾のひとつ・函谷鉾には、幼少期の実良(嘉多丸)をモデルにした稚児人形「嘉多丸君(かたまるぎみ)」が乗せられている。1839年に函谷鉾が再建された際、稚児に代わってはじめて稚児人形を乗せるにあたり、人形制作を依頼された大仏師の七条左京が

一条実秋

公知の子実久は権大納言にまで昇ったが、橋本家から迎えた養子の公松(実久の実孫にあたる)は若くして没して清水谷家は断絶した。同家の再興は江戸時代に入ってからの事になる。 書を世尊寺行俊に師事し、能書で知られた。書道が清水谷家の家業となったのも実秋以降の

実孝

を免れた。ただ、当初の扱いは蓮如一門として良いものとはいえず、かねてより実円(9世法主実如四男、三河本宗寺住持)の勢力の大和進出に悩まされていた。 筆才に富み、永正15年(1518年)に母蓮能尼が没した際に「能尼往生記」、大永5年(1525年)には実如の死に際して「実如上人闍維中陰録」などを多くの記

三条西実条

五男:公紀(堀尾泰長)又は堀尾右京- 子に清水谷実業、押小路公音 家女房の子女 嫡男:三条西公勝 二男武者小路公種 - 武者小路家の祖 四男:西川(芳心院) 六男:光深(修南院大和尚) 女子:最上義智後室 女子:浄心院 - 堀親昌後室 女子:清雲院(荒尾但馬室) 女子:桂昌院

九条兼孝

実、醍醐寺三宝院門跡義演、鷹司信房がいる。大叔父(祖母経子の弟)である九条稙通の養子となった時期は不明だが、弘治3年(1557年)4月5日に元服、正五位下左近衛少将に遷任されたため、この頃に養子になったと推定されている(12月27日に従四位下に昇叙)。 実家の二条家は長弟昭実が

九条道孝

九条 道孝(くじょう みちたか)は、日本の公家、政治家(貴族院議員)。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。最後の藤氏長者。 貞明皇后(大正天皇后)の父。昭和天皇の外祖父、第125代天皇・明仁(上皇)の曽祖父、第126代天皇・徳仁(今上天皇)の高祖父にあたる。 公式には九条

二条治孝

関白である鷹司政熙が辞意を示した際、後桜町院の外戚で左大臣でもある治孝が後任の有力候補であった(後桜町院は天皇に治孝の関白就任を求めていた)。しかし、光格天皇に「非器」と評価され、江戸幕府も同様の見解を示したため、関白は一条忠良に超越されてしまい、その代償に検討された准三宮宣下も、摂家一列の反対で実現しなかった。

一条

五摂家の一。 藤原北家。 九条家より分立。 道家の子実経を祖とする九条流の嫡流で, その称は居所の一条坊門にちなむ。

一条

(1)ひと筋。 「~の川」「~の閃光」 (2)箇条書きのひとくだり。 一箇条。 また, 第一条。 「~の条文」 (3)ある事柄のなりゆき。 一件。 一事。 「拙者が絶命の~今日(コンニチ)に迫り/人情本・梅美婦禰 4」

一条

※一※ (名) (1)細長いものの一本。 一条。 「ほつれ毛が~頬(ホオ)にかかる」「~の川」「~の光明」 (2)一つの血統。 一族。 「ただこの~のかく栄え給ふべきとぞ見申す/大鏡(師輔)」 (3)一道。 一芸。 「無能無才にして此~につながる/幻住庵記」 (4)〔銭緡(ゼニサシ)一本に一文銭を百個通したことから〕 百文。 「いやがつて月に~づつがのみ/柳多留 3」 (5)「一筋縄」の略。 「左平次も~ではいかぬやつ/滑稽本・膝栗毛 8」 ※二※ (形動) (1)そのことだけに意を用いるさま。 いちず。 「~に思いつめる」「学問~に生きる」 (2)一様であるさま。 並一通り。 「我が恋の~ならず悲しきは逢ふを限りと思ひだにせず/狭衣2」

一実

〔仏〕 唯一絶対の真理。 真如。

北条実時

る。 1238年(暦仁元年)3月18日、掃部助に任官。また、宣陽院蔵人にも補される。 1252年(建長4年)4月30日、幕府の引付衆と就る。 1253年(建長5年)2月、評定衆に異動。 1255年(建長7年)12月13日、従五位下に叙し、越後守に転任。 1258年(正嘉2年)、引付頭人を兼帯。

北条実泰

後継者に立てようとした伊賀氏事件が起こり、政村・実義兄弟は窮地に立たされる。伊賀の方は流罪となるが、政村と実義は異母兄泰時の計らいによって連座を逃れ、実義は父の遺領として武蔵国六浦荘(現在の横浜市金沢区)に所領を与えられた。泰時から偏諱を与えられて実泰に改名したのもこの頃とみられる。

三条実親

を務めることになった際、経光は実親の許に参って作法を習うなど、経光は数々実親を訪ねており、親交があった。建長5年(1253年)出家、弘長3年(1263年)薨去。享年69。 ※以下、註釈の無いものは『公卿補任』の記載に従う。 建久10年(1199年)正月15日:従五位下に叙す(女御琮子給)。