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傅作義

中華人民共和国成立後は、中央人民政府委員、軍事委員会委員、水利部部長、全国人民代表大会代表、国防委員会副主席、中国人民政治協商会議全国常務委員、同副主席などを歴任した。特に水利部長の地位には、建国直後から死去直前まで25年間在任している。 1974年4月19日、北京にて病没。享年80(満78歳)。

Related Words

傅

(1)かしずくこと。 お守り役。 (2)皇太子の輔佐・補導をする役。 東宮傅(トウグウノフ)。 「~には小松内大臣/平家 3」

傅山

(1607-1684) 中国, 明末・清初の文人画家。 字(アザナ)は青主, 号は嗇廬(シヨウロ)。 清朝に仕えることを拒んだ。 骨法のしっかりした山水画をよくし, 書や詩文にもすぐれていた。

傅く

(1)人に仕えて守り, 世話をする。 「姑に~・く」 (2)子供を大切に育てる。 「母后, 世になく~・ききこえ給ふを/源氏(桐壺)」 (3)後見する。 「伊予の介~・くや/源氏(帚木)」 〔中古以降の語か〕

師傅

(1)貴人の子を養育する役目の人。 守り役。 (2)太師と太傅。 古く中国で, 帝王を補佐する役。

傅育

かしずいて守り育てること。 「幼君を~する」「老臣が若君の~にあたる」

太傅

(1)中国, 周代の三公の一。 天子を補佐した。 (2)左大臣の唐名。 (3)旧皇室典範で, 天皇が成人に達しないとき, その養育にあたる職。

傅く

(1)心身の汚れを去り神に仕える。 《斎》「此の三柱の神は, 胸形君等の以ち~・く三前の大神なり/古事記(上)」 (2)神に仕えるような気持ちで大事に世話をする。 《傅》「海神(ワタツミ)の神の命のみくしげに貯ひ置きて~・くとふ玉にまさりて/万葉 4220」

傅岐

に移管された。傅岐は被告の枷を外すよう命じ、穏やかな言葉で問いかけると、被告は罪を自白した。法により死刑と判決されたが、冬節がやってくると、傅岐は囚人を釈放してその家に帰し、冬節1日を過ごさせて獄にもどさせることとした。部下の官吏たちが「むかしはこのようにしていたと聞くが、今は行うべきではない」と

傅嘏

傅 嘏(ふ か、建安14年(209年) - 正元2年(255年))は、中国三国時代の魏の政治家。字は蘭石。涼州北地郡泥陽県の出身。父は傅充。伯父は傅巽。子は傅祗など(他は不詳)。孫は傅宣・傅暢。『三国志』魏書に伝がある。 前漢の傅介子の後裔。祖父の傅睿は代郡太守、父の傅充は黄門侍郎、伯父の傅巽は黄初年間に魏の侍中・尚書となった。

傅奕

えき、555年(天保6年) - 639年(貞観13年))は、中国隋・唐代初めの天文暦法学者であり、また、官途に就く前は道士であり、激烈な排仏論者としても知られる。相州鄴県の人。 唐の創業に当たって、太史令に任ぜられ、新しい漏刻の法を制作して上進し、採用された。 また、何度も仏教排斥を求める上奏文を上り、

傅玄

Author:傅玄 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。 宋書/卷22 『晋書』本伝によると、傅玄は「文集百余巻」の他、『傅子』120巻などの著述を残したが、現存するものはその一部に過ぎない。『三国志』の裴松之注などに残る『傅子』は、傅

傅燮

趙忠が車騎将軍となると、黄巾の乱討伐の論功をおこなうこととなり、趙忠は弟の趙延を傅燮のもとに派遣して、万戸侯の位で傅燮を釣ろうとした。傅燮は気色ばんで、「遇と不遇は天命である。功あって論じられないのは時機である。傅燮がどうして私賞を求めようか」と拒絶した。趙忠はますます傅燮を恨むようになった。傅燮は権貴の人

傅 (姓)

傅」を「付」と書くこととしていた。 傅説(ふえつ) - 殷の高宗(武丁)の宰相。 傅寛 - 前漢の武将。 傅介子 - 前漢の武将。 傅昭儀 - 前漢の元帝の妃。哀帝の祖母。 傅嘏 - 三国時代の魏の政治家。 傅彤 - 三国時代の蜀漢の武将。傅肜とも。 傅僉 - 三国時代の蜀漢の武将。傅彤の子。 傅玄

傅僉

後年、西晋の皇帝司馬炎は、傅彤・傅僉父子の忠義を称える詔を出した。子の傅著・傅募は官奴にされたが、後に赦免され庶人となった。 小説『三国志演義』では剛腹の荒武者で、鉄扇と薙刀を愛用している。姜維に気に入られ北伐に従い、魏との戦いで活躍。王真を生け捕り、李鵬を討ち取り、鄧艾からも勝利を収めた。

傅亮

に、翌年に劉裕らが起兵し、桓玄が敗北したため、傅亮は丹陽尹孟昶の下で建威参軍となった。 義熙元年(405年)、員外散騎侍郎の位を受け、西省に宿直し、詔命の起草をつかさどった。後に母が死去したため、辞職して喪に服した。喪が明けると劉毅の下で撫軍記室参軍となり、さらに領軍司馬に任じられた。義熙7年(41

傅暢

を任命する事)を受け、河陰県令に任じられた。 この時、豫州刺史閻鼎もまた密県に拠って行台を立てており、秦王司馬鄴(後の愍帝)を盟主に仰いでいた。10月、傅暢は閻鼎へ手紙を送り、秦王を奉じて洛陽を越え、山陵へ謁拝し、長安に拠って胡人・漢人を慰撫し、義兵を興して宗廟を復活させ、社稷の恥を雪ぐ

傅幹

建安19年(214年)秋7月、曹操が孫権を討伐しようとすると、参軍となっていた傅幹は、徳をもって懐柔するのが良いとして征伐を諌めたが、聞き入れられなかった。結局この征伐は、捗捗しい戦果を残せずに終わっている。 『三国志』魏書武帝紀によれば、傅幹の官位は丞相倉曹属で終わったとあるが、『後漢書』傅燮伝によれば扶風太守まで至ったとある。

傅顔

傅 顔(ふ がん、生没年不詳)は、五胡十六国時代前燕の人物。 前燕に仕え、長楽郡太守に任じられた。 358年、河間郡出身の李黒が反乱を起こし、州郡を荒らしまわると、棗強県令衛顔を殺害した。傅顔は李黒討伐に赴くと、これを破って李黒を討ち取った。 359年8月、東晋の泰山郡太守諸葛攸が2万の水軍・陸軍

傅説

『国語』楚語上「昔殷武丁(中略)如是而又使以象夢求四方之賢、得傅説以来、升以為公、而使朝夕規諫、曰:若金、用女作礪。若津水、用女作舟。若天旱、用女作霖雨。啓乃心、沃朕心。若薬不瞑眩、厥疾不瘳。若跣不視地、厥足用傷。」 ^ 『荀子』非相「傅説之状、身如植鰭。」 ^ 金城未来「清華簡『説命』の文献的特質 : 天の思想を中心に」『待兼山論叢