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北条顕時

々木宗綱も同様の可能性がある(現段階の研究では時宗と同じく将軍・宗尊親王を烏帽子親としたと考えられている。 ^ 「胃を病呵せられて、休退を許すといえども、裁あるごとに諮問せらる、然る間、正安の暦清明に夭し」とある(『北条顕時十三廻忌諷桶文案』)。 ^ a b c d e f g h i j k l m

Related Words

北条貞顕

引付頭人3番に任命されたが、六波羅探題を辞任して鎌倉に帰還して3ヶ月ほどの貞顕が引付3番であることや兄の甘縄顕実(7番)より上位にあることは貞顕が北条一門の中でも特別待遇の地位にあったことを物語っている。4月9日には北条煕時と共に寄合衆に任命され、引付・寄合兼務により幕府の中枢を担当する一員になった。

北条実時

る。 1238年(暦仁元年)3月18日、掃部助に任官。また、宣陽院蔵人にも補される。 1252年(建長4年)4月30日、幕府の引付衆と就る。 1253年(建長5年)2月、評定衆に異動。 1255年(建長7年)12月13日、従五位下に叙し、越後守に転任。 1258年(正嘉2年)、引付頭人を兼帯。

北条久時

1298年(永仁6)、評定衆と就る。 1301年(正安3)、一番引付頭人を兼帯。 1302年(乾元元)、一番引付頭人から二番引付頭人に異動。 1304年(嘉元2)、寄合衆も兼帯。月日不詳、武蔵守に転任。 1305年(嘉元3)、二番引付頭人から一番引付頭人に異動。 1306年(徳治元)、正五位下に昇叙。武蔵守如元。

北条泰時

c 同時代に同名の阿波局(叔母。父義時の姉妹)がいるため名前を誤伝とする見方もある。また坂井孝一は「推論に推論を重ねることを承知の上で、いささか想像をめぐらしてみたい」「単なる推論、憶測と退けられるかもしれないが」「不明な点、論証できない点は少なくないが」と断

北条時益

戦うが、5月7日に綸旨に応じて寝返った足利尊氏(高氏)に六波羅を攻略されたため、六波羅探題北方の北条仲時と共に光厳天皇や花園上皇を伴って東国へ落ち延びようとしたが、道中の京都東山で野伏に襲われて討死した。 [脚注の使い方] ^ a b c d 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年、546頁。 

北条高時

の側近日野資朝を佐渡島に配流し、計画に加担した者も処罰された。 正中3年(1326年)には、病のため24歳で執権職を辞して出家(法名・崇鑑)する。後継を巡り、高時の実子邦時を推す長崎氏と、弟の泰家を推す安達氏が対立する騒動(嘉暦の

北条時光

八月之比、修理権亮時光越後守時盛息陰謀事露顕之間、歴種々拷訊之後、配流佐土国、与満実法師同意云々、」〔原文ママ〕とあり、『保暦間記』にも「弘安二年…(略)…同四年…(略)…同八月、修理亮越後守盛時男時房孫也、隠犯事顕テ、佐渡国へ遠流セラル。蒲実法印同意云云」〔原文ママ〕とあって、時光が陰謀の罪によ

北条邦時

翌3年(1326年、4月嘉暦に改元)3月13日に高時が出家。その後継者として安達氏は高時の弟・泰家を推したが、泰家の執権就任を阻みたい長崎氏(円喜・高資など)によって邦時が後継者に推される。しかし、当時の邦時は生後三カ月(数え年でも2歳)の幼児であり得宗の家督を継いだとしても幕府

北条基時

たため、この合戦の2週間前に近江番場で自害した嫡子の仲時の後を追うように、残り少なくなった部下と共に自害した。享年48。 辞世の歌は「待てしばし 死出の山辺の 旅の道 同く越て 浮世語らん」であり、この歌は先に自刃した仲時の事を思って詠じたと言われる。 ※ 日付=旧暦 1299年(正安元年)11月4日、従五位下左馬助に叙任。

北条時茂

死去するまで14年間に渡って探題職を務めた。 後に六波羅を滅ぼす足利尊氏は曾孫にあたる。 『吾妻鏡』に見る初出記事は建長2年(1250年)正月3日の垸飯で、時茂は一御馬を担当した(10歳)。また、同4年4月の新将軍宗尊親王の鎌倉到着に際しては迎えの行列に加わっている(12歳)。同6年3月20日、服喪

北条時頼

北条 時頼(ほうじょう ときより)は、鎌倉時代中期の鎌倉幕府第5代執権(在職:1246年 - 1256年)である。北条時氏の次男で、4代執権北条経時の弟。8代執権北条時宗らの父。通称は五郎、五郎兵衛尉、武衛、左近大夫将監、左親衛、相州、また出家後は最明寺殿、最明寺入道とも呼ばれた。 幼くして実父時

北条時敬

『官報』第2041号「叙任及辞令」1919年5月26日。 『北条時敬先生』 尚志同窓会、1929年10月 「廓堂先生年譜後附」(前掲 『廓堂片影』) 後掲 『北条先生の訓言』 西晋一郎 『北条先生の訓言』 広島文理科大学尚志会、1936年10月 木佐貫重元 『北条時敬先生』 石川県思想問題研究会ほか〈郷土先賢叢書〉、1938年5月 『北条文庫目録』

北条朝時

るよし申されたる、返々しむへうに候」とあり、朝時(式部丞)の到着を待たずに行われたことを伝えている。『承久記』などによれば、朝時はちょうどこの日、越後国の国府に到着したものと思われる。 ^ 砺波山の戦いを6月9日とするのは、『吾妻鏡』等で8日に越中の般若野に着いたとされる朝時軍が翌

北条時宗

北条 時宗(ほうじょう ときむね)は、鎌倉時代中期の鎌倉幕府第8代執権(在職1268年-1284年)。5代執権北条時頼の次男(嫡男)。鎌倉幕府執権職を世襲する北条氏の嫡流得宗家に生まれ、世界帝国であったモンゴル帝国の圧力が高まるなかで執権に就任。内政にあっては得宗権力の強化を図る一方、モンゴル帝国

北条時国

八月之比、修理権亮時光越後守時盛息陰謀事露顕之間、歴種々拷訊之後、配流佐土国、与満実法師同意云々、」〔原文ママ〕とあり、『保暦間記』にも「弘安二年…(略)…同四年…(略)…同八月、修理亮越後守盛時男時房孫也、隠犯事顕テ、佐渡国へ遠流セラル。蒲実法印同意云云」〔原文ママ〕とあって、時光が陰謀の罪によ

北条時房

男子:北条時村…相模次郎。承久2年(1220年)出家(法名・行念)。嘉禄元年(1225年)12月没 男子:北条時定…相模六郎 男子:忠源…延暦寺の僧。僧正 女子:一条頼氏妻 女子:北条朝時妻 女子:安達義景妻 女子︰千葉時胤妻 女子:長井時広妻 養子 北条時広…相模七郎。次男時村の子 北条時隆…相模八郎。次男時村の子

北条随時

北条 随時(ほうじょう ゆきとき)は鎌倉時代後期・末期の北条氏の一門。阿蘇流の3代当主。阿蘇 随時(あそ ゆきとき)とも。 正和4年(1315年)7月8日、二番引付頭人を経て、文保元年(1317年)2月もしくは3月に鎮西探題に就任。 元亨元年(1321年)6月23日、鎮西にて31歳で死去(死亡月は4月25日、5月25日説も)。

北条時章

蒙古襲来を前に幕府首脳陣は幕府の一元化を企図していたこと、時章が守護職を務めていた大隅国などが二月騒動後収公されていることから、幕府としては初めから時章を始末する腹積もりであった可能性もある。 ※日付=旧暦 暦仁元年(1239年)閏2月15日、大炊助に任官。2月27日、式部少丞に遷任。9月1日、従五位下に叙し、式部大丞に転任。

北条守時

軍より一字を与えられる特権を許されていた。 応長元年(1311年)6月5日、引付衆就任を経ずに評定衆に任命された。 嘉暦元年(1326年)3月の嘉暦の騒動の後、政変に対する報復を恐れて北条一門に執権のなり手がいない中、引付衆一番頭人にあった守時が4月24日に16代執権となる。しかし実権は、出家してい