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本多忠央

758年)に西丸若年寄に就任するが、郡上一揆が原因で美濃国郡上藩主・金森頼錦が悪政を理由に改易されると、忠央も一揆の報告を受けながら対応を放置した職務怠慢を咎められ改易され、松平長孝預かりの身となった。代わって相良藩には事件を審判した田沼意次が入った。 明和5年(1768年)に罪を許されて赦免された

Related Words

本多忠民

)に京都所司代に転任し、朝廷対策、特に条約締結問題で朝幕間を奔走した。万延元年(1860年)より2年ほど老中を務める。元治元年(1864年)に再任の台命が下った際は一旦は固辞しているが、結局就任した。戊辰戦争の際は岡崎藩を恭順に統一した。 明治2年(1869年)2月20日、隠居して婿養子の忠直に家督

本多忠純

本多 忠純(ほんだ ただずみ)は、江戸時代前期の大名。本多正信の三男で、下野榎本藩の初代藩主となった。豪勇で知られた人物で、大坂の陣での戦功によって知行は2万8000石まで加増された。官位は従五位下・大隅守。 天正14年(1586年)、遠江国に生まれる。若年時より徳川家康に仕え、従五位下に叙された。

本多忠朝

1万5000両を忠朝に譲ろうと遺書を残したが、忠朝は兄の忠政は所領も広く所用もまた多いだろうと言って、この金を受け取らなかった。忠政は亡父の遺命にそむくべからずといって互いに金を受け取ろうとしなかった。結局、兄弟で折半することになった(『徳川実紀』)。 慶長19年(1614年)、安房国の里見忠義改

本多忠籌

なる。飢饉用の備蓄庫である郷蔵を設置し、堕胎を禁止した。 寛政の改革における幕政に参与し、閣内においては早くから国防の必要性を痛感し、最上徳内の「蝦夷草紙」に影響を受け、蝦夷地を幕府直轄地とし、開拓を進めてロシアの南下政策に対抗すべしと主張した。この主張は蝦夷地は旧来どおり松前藩に統治させるべしとす

本多忠国

大島へ遠島となると、幕府に許可されている持ち込み上限の金20両・米20俵のぎりぎりに近い、金19両米19俵を伝内に贈って支援している。 ^ 忠国の外祖母亀姫は本多忠政の娘であるため、忠国は本多家の血を引いていた。忠国にとって養父・政長は従伯父にあたる。 ^ “本多家廟屋”. 姫路市. 2021年1月12日閲覧。

本多忠勝

を務め、坂下という不利な地形に陣取り、馬場信春の部隊を相手に奮戦し、家康率いる本隊を逃がし撤退戦を無事に完了させた。この時に忠勝が着ていたのが鹿角の兜に黒糸威の鎧であった。 同年12月の三方ヶ原の戦いでは左翼を担い、山県昌景隊と戦い、撃退している。天正元年(1573年)の長篠城攻めでは9月に堀越で

本多忠豊

天文14年(1545年)、三河安祥城をめぐる織田信秀との戦い(第二次安祥合戦)で敗北した松平広忠を逃がすため、殿軍を務めて討死した。三河国乗子の大中寺に葬られ、後に妙源寺に改葬された。 寛政6年(1794年)に岡崎藩主本多忠顕が建立した墓碑が安城市内に残る。 『徳川家康』 (NHK大河ドラマ

本多忠憲

『信長公篭手之図』文化5年(1808年) 『縨・髪掻・籾』文化5年(1808年) 『塵泥』文政9年(1826年) 『火打袋考』天保3年(1832年) 『大小刀佩始考』天保7年(1836年) 『楯考』 『火打袋之図』 『源氏不掃塵』 『安齋著述書目全』 『馬甲馬面之圖』 『伊勢物目録』 『柏挟考』 『提灯考』

本多忠刻

平信康の次女・妙高院(熊姫・ゆうひめ)。 祖父の忠勝が慶長6年(1601年)に伊勢桑名に入部すると、忠政と共に桑名に移った。 長じるに従い、忠刻は眉目秀麗で優雅さを持ち、誰もが振り返るほどの美丈夫だった。 大坂夏の陣では忠政と共に出陣し、慶長20年5月7日(1615年6月3日)の道明寺の戦いにも参加して敵の首級を挙げた。

本多忠政

大坂の陣では伊勢国の諸大名を率いて参加し、冬の陣では慶長19年(1614年)10月11日に徳川軍の先鋒を命じられた。忠政は大坂城包囲においては北側の天神橋方面に陣取っていた。冬の陣が終わって家康が帰途についた際、桑名で1泊している。冬の陣

本多忠如

延享3年(1746年)9月25日、遠江を本拠地とする日本左衛門と名乗る盗賊の取り締まりになおざりがあったとして陸奥泉藩へ移封された。宝暦4年(1754年)8月29日、長男の忠籌に家督を譲って隠居し、安永2年(1773年)10月15日に死去した。享年63。 著書に「壷山集」がある。 父母 本多忠直(実父)

本多忠良

本多 忠良(ほんだ ただなが)は、江戸時代中期の大名。幕府では側用人、老中を務めた。越後国村上藩の第2代藩主、三河国刈谷藩主、下総国古河藩の初代藩主。官位は従四位下・侍従、中務大輔。忠勝系本多家宗家8代。 本多平八郎家の分家筋にあたる播磨国山崎藩主・本多忠英の長男として誕生。宝永6年(1709年)、

本多忠粛

本多 忠粛(ほんだ ただとし)は、江戸時代中期の大名。石見国浜田藩の第3代藩主、三河国岡崎藩の初代藩主。官位は従五位下・中務大輔。忠勝系本多家宗家11代。 先々代で浜田藩初代藩主・本多忠敞の長男。前藩主・本多忠盈の養子となる。 明和4年(1767年)に前藩主・忠盈の死去により家督を相続する。明和6

本多忠孝

本多 忠孝(ほんだ ただたか)は、江戸時代中期の大名。播磨国姫路藩の第2代藩主、越後国村上藩の初代藩主。官位はなし。忠勝系本多家宗家7代。 姫路藩主・本多忠国の3男。 宝永元年(1704年)5月10日に父の死により家督を相続する。しかし、姫路は西国の要となる場所であることから、幼少を理由に忠孝は5月28日に越後村上藩に移封された。

本多忠常

元禄8年(1695年)、兄の死去によりその養嗣子として家督を継いだ。 元禄12年(1699年)、城下町の大火、江戸屋敷の火事、京都御所の造営などによる再建・造営費用などで出費が重なり、藩財政が窮乏化した。宝永4年(1707年)10月10日、四兄忠晴の長男・忠直を養子とした。

本多忠統

由に若年寄を辞任し、11月19日には五男の忠永に家督を譲って隠居した。宝暦7年(1757年)2月29日に死去。享年67。 当時においては、茶人としても有名で、茶名を「宗範」と称した。 父母 本多忠恒 正室 加藤明英の娘 側室 松氏 子女 本多康桓(長男) 小笠原信胤(次男) 本多忠篤(三男) 本多忠栄(四男)

本多忠烈

本多 忠烈(ほんだ ただつら)は、江戸時代中期の大名。大和国郡山藩の第5代藩主。 正徳6年(1716年)、第3代藩主・本多忠直の3男として郡山にて誕生。母は石井氏。幼名は喜十郎。 享保7年(1722年)、兄で先代藩主・忠村の夭逝により跡を継いだ。しかし幼少であることを理由に、所領を5万石にまで減らさ

本多忠考

年)の矢作川洪水で2万石の損害と70人余りの死者を出すなど、藩財政の困難はさらに促進される。しかもこのような中で忠考は病弱で藩政が執れず、とても藩の窮境を打開できるような人物ではなかった。 また、実子・忠胤も病弱だったため(ただし他にも実子はいた)、親藩高松松平家から忠民を婿養子として迎え、天保6年

本多忠村

享年13。墓所は東京都文京区湯島の麟祥院。 松浦清(静山)の『甲子夜話』によれば、忠村の死に際し、吉宗が「天然痘というものは、ずいぶん容貌が変わるそうだ」とたびたび語っていたという。これは、他の人物を忠村ということにしてすり替えても分からない、と暗にすり替えを勧めていたのではないかとされるが、本多