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源兼子

符民部省の通達を受けた。従四位上に叙せられたが、天暦3年(949年)9月に卒去した。ちなみに兼子の卒去により、天禄3年10月6日に予定されていた止雨奉幣使は延引されることになった。 芳賀登ほか監修『日本女性人名辞典』日本図書センター、1993年。 角田文衛監修『平安時代史事典』角川書店、1994年。

Related Words

源兼澄

かねずみ)は、平安時代中期の貴族・歌人。初名は兼隆。光孝源氏、右大弁・源公忠の孫。鎮守府将軍・源信孝の子。 東宮・師貞親王(のち花山天皇)の東宮帯刀を務める。 一条朝にて陪膳を務め、永延2年(988年)には六位蔵人に左衛門尉検非違使尉を帯びていた。式部丞を経て、永延3年(989年)従五位下に叙爵する。のち、若狭守・加賀守

源頼兼

京中で騒ぎとなるが、『玉葉』に見えているこの記事の中で頼兼は九条院の非蔵人を務め五位となっていたことが確認でき、また頼兼の「党等類」が「美乃源氏頼光末葉」と称されていたことが記されている(同書同年6月29日条)。治承4年(1180年)5月の以仁王の挙兵における動向は詳らかでなく、寿永2年(1183年

源兼忠

10月4日:中宮権大夫、亮如元 天慶9年(946年) 4月28日:正四位下(前坊亮)。7月17日:兼左京権大夫。9月16日:右京権大夫(左京大夫玉淵依有従父兄忌也) 天暦5年(951年) 正月30日:近江権守 天暦8年(954年) 3月14日:参議 天暦9年(955年) 2月7日:兼備前権守。参議如元 天暦10年(956年)

源兼昌

源 兼昌(みなもと の かねまさ)は、平安時代後期の貴族・歌人。宇多源氏、美濃介・源俊輔の子。官位は従五位下・皇后宮少進。 官位には恵まれず従五位下・皇后宮少進に至るが、その後出家。没年については不詳であるが大治3年(1128年)頃には生存していたようである。康和2年(1100年)の国信卿家歌合以下

源兼資

伊予守の任期が満了して京に戻ると、伊予の諸郡の郡吏らが上洛して、兼資の治能をもって重任を請ったという。伊予守在任中に左馬権頭を兼ねている。 長保4年(1002年)7月の末から寝食が通常を失い、左馬権頭の辞職を請って許される。8月6日の辰刻に出家し、同日の巳刻に卒去。享年43。最終官位は前左馬権頭正四位下。

源兼行

源 兼行(みなもと の かねゆき)は、平安時代中期の貴族・能書家。陽成源氏、上総介・源延幹の子。官位は正四位下・大和守。 陽成天皇の第六皇子である大納言源清蔭の孫で、能書家でもあった源延幹の子として誕生。 当時第一の手書きと称され、位記(位を授ける際に与える文書)や上表文の清書、願文(祈願の意を表す

源兼綱

その後、義兄弟にあたる源仲綱・仲家および渡辺党の面々らと共に頼政の下に参じ、園城寺から南都(奈良)へ逃れる途中、宇治平等院で頼政を守って壮絶な戦死を遂げた。『平家物語』には「聞ゆる大力」と記され、上総判官藤原忠綱以下平家勢との奮闘の様子が描かれる。また『玉葉』もその猛烈な戦いぶりを「兼綱の矢前に廻る者無し、宛も八幡太郎(源義

源義兼

治承四年(1180年)冬、平清盛の攻撃により義基ら石川源氏の主力が鳥羽(京都市伏見区)で壊滅した際、義兼は本拠地の石川城にあった。 清盛は源義家以来の河内の石川源氏に止めを刺すべく、源大夫判官季貞、摂津判官盛澄らを派遣して石川城を攻撃する。義兼は河内石川源氏の棟梁として、叔父の紺戸義広・二条義資らを率いて決死の防戦に努め、平家方を散々にてこずらせた。

源兼宣

るなど、蔵人として一条天皇の傍に仕えていた様子が窺える。長保3年(1001年)4月27日に出家。最終官位は正六位上蔵人式部丞と、若くして出家したため卑官に終わった。 藤原行成と親しく、度々『権記』に名が記されている。 長保元年(999年) 9月6日:見六位蔵人。9月8日:見掃部助 長保2年(1000年)

兼子勲

兼子 勲(かねこ いさお、1938年3月1日 - 2013年7月18日)は元・日本航空代表取締役会長。東京都出身。 兼子容子(妻) 1960年に東京大学法学部卒業と同時に日本航空に入社。1983年6月にローマ支店長兼ローマ空港支店長を務めた後、1985年6月勤労部長に就任。1991年6月に日本航空取

柳兼子

った。1927年にはグスタフ・マーラーの歌曲集『亡き子をしのぶ歌』『リュッケルトの詩による5つの歌』および『子どもの魔法の角笛』の中の「死せる鼓手」「少年鼓手」を日本初演している(近衛秀麿指揮、新交響楽団(NHK交響楽団の前身)の定期演奏会)。1928年にドイツへ留学した。ベルリンでのリサイタルでは

兼子一

- 1973年(昭和48年)4月6日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法。学位は法学博士。元東京大学教授。従三位勲一等瑞宝章。当時、実体法学者が片手間に取り組んでいた民事訴訟法研究を専門に行い、日本における民事訴訟法学の独自性の基礎を築いた。加藤正治門下。弟子に竹下守夫、新堂幸司、小山昇、斎藤秀夫、霜島甲一など。

兼子仁

『自治体・住民の法律入門』(岩波新書、2001年) 『行政書士法コンメンタール』(北樹出版、2004年) 『自治体行政法入門 法務研修・学習テキスト』(北樹出版、2006年) 『地方公務員法 法務研修・学習テキスト』(北樹出版、2006年) 『地方自治ことばの基礎知識:キーワードを通

源子雍

蕭宝寅らが平涼で莫折念生らの反乱軍に敗れ、宿勤明達の子の宿勤阿非に華州の白水郡が包囲された。子邕は夏州で兵を募集して南に進軍し、鋸谷に拠る康維摩の反乱軍を撃破した。また楊氏堡に拠る契官斤の反乱軍を破った。転戦して東夏州に入り、ようやく朝廷の公認を得て、散騎常侍・使持節・仮撫軍将

源方子

(訓読文)天皇(すめら)が詔旨(おほみこと)らまと、宣(のりたま)ふ勅命(おほみこと)を聞食(きこしめ)さへと宣(の)る、外祖を尊(たふと)びて追餝(つゐしょく)し給ふ道は、礼典(ゐやわざ)の常も存する所なり、故(かれ)無位源朝臣方子は、朕が外祖母なり、国の恒規(こうき)としてなむ、故(かれ)是以(ここも)て正一位を

源子恭

た。洛陽に召還されて、河内郡太守に任じられ、後将軍の号を受けた。526年(孝昌2年)、絳郡の蜀の陳双熾が反乱を起こすと、子恭は反乱の鎮圧にあたった。丹谷と清廉の2路が不通となると、子恭は河内郡の別将となった。まもなく建興郡の蜀が反乱を起こすと、子恭は持節・散騎常侍・仮平北将軍・征建興都督となり、尚書

源在子

子九条良経が左大臣に昇進し、正治2年(1200年)には土御門天皇の弟の守成親王(後の順徳天皇、母は在子の母範子の父方の叔父藤原範季の女藤原重子(修明門院))が皇太弟とされた。『愚管抄』によると、在子は母範子が死去した後、養父である通親と密通したため、後鳥羽上皇は修明門院重子を寵愛するようになったと

源麗子

『栄花物語』巻36「根合わせ」によれば、信家は麗子を后がねの姫君として育て、東宮(のちの後三条天皇)に参入させようとしたが、時の東宮妃馨子内親王に遠慮し、また藤原能信の養女茂子が「御子たちあまた」いる状態であったので、断念して藤原師実に嫁がせたという。師実は女癖が悪く、所々の女に大勢の子供を産ませたが

源順子

『公卿補任』(承元元年藤原実頼尻付)『本朝皇胤紹運録』 ^ a b 島田とよ子「忠平の禁色聴許の時期について」 ^ a b 角田文衛「菅原の君」、『日本人名大辞典』等。 ^ 『日本三代実録』 ^ 迫徹朗『大和物語』人物考証、島田とよ子「忠平の禁色聴許の時期について」。島田は更に厳密に、昌泰3年または延喜2〜5年の間と推定している。