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京極高広

津藩を含む近隣大名に福知山藩討伐のための動員準備を命ずるなど緊迫する中、紀通は8月20日に自害し、福知山藩稲葉家も改易となった。 高広は領民に対して悪政を敷いたとされ、承応3年(1654年)に農民が藩外へ逃散している。同年4月23日、長男の高国に家督を譲って隠居し、安智軒道愚と号して現在の宮津市字安

Mots Associés

京極高朗

宮参詣の玄関口とすることで観光業および商業をさらに発展させた。 弘化2年(1845年)には罪を得た元幕府役人の鳥居耀蔵を預かっている。治世後期から、士民共に奢侈に走る傾向が見えたため、高朗は藩政再建のために加藤俊治らを登用して藩政改革を行ない、倹約と風紀を主とした10か条の法律制定や文教政策に力を注

京極高有

1823年)、藩営の産物会所を開設し、柳行李流通の独占を図り、財政の再建に努めた。しかし、文政8年(1825年)には豊岡町民による産物会所や金銀売買商屋敷の打ち壊しに遭うなどして銀札の暴落を招き、さらに物価上昇、窮民による暴動まで起こって、藩政改革は失敗に終わった。

京極忠高

を仲介として忠高の陣において行われた。また、講和条件の大坂城の外堀を埋める作業の工事奉行となった。夏の陣では京極軍は首数370を打ち取るも、進軍に遅れた。寛永元年(1624年)には越前国敦賀郡が加増された。 小浜藩主となった忠高は遠敷川を

京極高品

締まって綱紀粛正を図り、緊縮財政政策を採用した。しかし、藩主・改革派と守旧派の確執が続き、重臣の脱藩や永蟄居などが相次いだ。 寛政元年(1789年)に正室と離別し、嗣子がなかったため、弟の高大を養子として迎えていたが、病弱であったために寛政2年(1790年)に廃嫡し、改めて峰山藩京極家から高

京極高詮

京極 高詮(きょうごく たかのり)は、室町時代前期の武将、守護大名。 室町幕府侍所頭人、近江・飛騨・出雲・隠岐・山城・石見守護。官名は治部少輔。 文和元年(1352年、南朝:正平7年)、京極高秀の子として誕生。貞治4年(1365年、南朝:正平20年)、佐々木氏宗家六角氏頼の嫡男・義信が17歳で死去

京極高国

であり、親族が責任を取った形ではあるが、優し目の措置である。 弟の京極高勝も兄に連座する形で1666年に逼塞処分とされたが、翌年には許され蔵米五千俵を賜り、寄合に列した。高勝は兄の高治の子の国晴を養嗣子としたが、病により跡を継げなかったため、国晴の子の京極高金を嗣孫とし1683年に相続させた。この高金

京極高之

元禄12年(1699年)4月29日、父の隠居で跡を継いだ。このとき、弟の高重に500石を分与している。書画に巧みで、特に彼の描いた絵画は神技とまで謳われた。享保8年(1723年)2月2日、46歳で死去し、跡を婿養子の高長が継いだ。法号は隆源院天誉頭含道倫。墓所は京都府京丹後市峰山町吉原の安泰山常立寺。

京極高延

弟の高吉とは仲が悪く、父が弟に家督を譲ろうとしたため、大永3年(1523年)、父に反発した浅見貞則や浅井亮政、堀元積ら近江国人衆に擁立され、父と弟を尾張に追い落とし、京極氏当主となった。しかし、実権は浅見貞則に握られており、大永5年(1525年)に浅井亮政が高清と和睦して貞則を追放、この機に乗じた南近江の六角定頼

京極高三

京極 高三(きょうごく たかみつ)は、丹後国田辺藩(舞鶴藩)の初代藩主。但馬国豊岡藩京極家初代。 慶長12年(1607年)3月17日、丹後国主・京極高知の3男として丹後田辺城で生まれる。慶長16年(1611年)、京都二条城で大御所の徳川家康と、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠に拝謁した。

京極高義

京極 高義(きょうごく たかよし、1874年(明治7年)12月19日 - 1923年(大正12年)9月1日)は、明治から大正期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 旧但馬豊岡藩主・京極高厚の二男として生まれる。父の死去に伴い家督を継承し、1906年(明治39年)1月23日、子爵を襲爵した。

京極高和

正室所生は阿久里のほか、早世した長男・小法師と次女。側室房子所生は次男・高豊。側室熊谷氏所生は宮子。 高和は先代当主・忠高の甥というのが通説であるが、実は忠高が側女との間に儲けた男子を、正室・初姫とその実家の徳川将軍家を憚って「甥」として届け出たという説がある。 父:安毛高政 母:本庄氏 養父:京極忠高(1593年

京極高吉

好むので四十日間続けて説教に耳を傾けてこれをよく悟り、四十日の終りには二人とも洗礼を受けた。この貴人たちには十一、二歳の幼い子息が一人あって、この頃、他所で信長に仕えていた。父親は彼が帰った時に家族全員と共に洗礼を受けさせることに決めていたが、それより数日後、我らの主が父親を御許に召し給うたので

京極高倍

直貞(一色姓)と四兄正応(津田姓)は他家の養子に出されていたためである。天保3年(1832年)11月20日、父高備の隠居により家督を継いだ。同年12月16日、従五位下備前守に叙任した。しかし在職1年あまりの翌年12月5日に26歳で死去した。嗣子がなく、跡を弟の高鎮が継いだ。法号は徳彰院興誉和順道融。

京極高清

明応6年(1497年)斎藤妙純が北近江に侵攻し京極政経を破るが、美濃への帰国中に一揆勢に囲まれ戦死してしまい、高清も没落、美濃海津に寄留する。翌明応8年(1499年)に京極氏重臣・上坂家信の助力により江北へと帰還、京極政経は出雲の守護代尼子経久を頼り下向し、永正2年(1505年)に京極政経の子で従弟の京極材宗と和睦し

京極高久

但馬国豊岡藩京極家に五男・高有を養子に出したことでも知られる。 文化5年(1808年)4月20日、江戸にて死去し、跡を高備が継いだ。享年80。法号は謙徳院明誉高久道徴。墓所は京都府京丹後市峰山町吉原の安泰山常立寺。 父:京極高庭 母:京極高方の娘 兄弟 弟:瀬名孫助 弟:大岡直往 弟:池田富郷 養父:京極高長(1695-1769)

京極高陳

「峰山郷土史」上(1963年 同町、1985年 臨川書店復刊)にも「靭負高興弟」 「峯山旧記・御料所日記」(1940年 龍灯社、1979年 世界聖典刊行協会復刊)にも「靭負高興弟」 「峰山藩知事京極高陳他履歴」(京都府立京都学・歴彩館蔵「宮津藩政記録」383)には「実父末家故京極蓬山源高記」(実祖父の記述なし)とある。

京極高典

交代で江戸に赴き、従五位下・壱岐守に叙任される(後に河内守、下総守と変遷)。元治元年(1864年)11月、江戸より多度津に帰る途上、孝明天皇に拝謁し天盃を賜わり、12月26日まで京都御所日之御門警衛の警備を命ぜられる。 慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは官軍として戦う。1月19日、本藩丸亀

京極高琢

第4代藩主・京極高賢の長男として誕生。 天保4年(1833年)3月8日、父の隠居により跡を継ぐ。藩政では防波堤を築き、瀬戸内海に良港を築くなど、手腕を見せた。安政6年(1859年)3月11日、家督を養嗣子の高典に譲って隠居し、慶応3年(1867年)3月22日に57歳で死去した。

京極高或

次男:西尾忠需(1716年 - 1789年) - 遠江国横須賀藩主西尾忠尚の養子。忠尚の室は高或の姉妹。 生母不明の子女(全て母は別) 男子:京極高綏 - 長男の高迢(1741年 - 1762年4月24日)は高矩の養嗣子となり将軍お目見えまで済ませたが、早世した。 男子:多賀良安 男子:京極高亮 『西讃府史』