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Détails du Mot

鄙

[ひな]
(1)都から離れた土地。 いなか。
「~にはまれな美人」
(2)支配の及ばない未開地に住む人々。 えびす。
「四道将軍(ヨツノミチノイクサノキミ)~を平(ム)けたる状を以て奏す/日本書紀(崇神訓)」
<i>~の別れ</i>
都を離れて, 田舎へ行くこと。
「思ひきや~に衰へて海人の縄たきいさりせむとは/古今(雑下)」

Mots Associés

鄙語

(1)卑しい言葉。 下品な言葉。 スラング。 卑言。 (2)田舎びた言葉。 里びた言葉。 《鄙語》

鄙俗

(1)卑しく下品であること。 低俗であること。 また, そのさま。 「~な歌」 (2)いなかびている・こと(さま)。 「~な風習」 ﹛派生﹜~さ(名)

鄙見

自分の意見をへりくだっていう語。 「あえて~を述べさせていただけば」

鄙賤

身分や地位が低く, いやしい・こと(さま)。 「~の身」「教育といふものを受けた事のない~な男なら/ヰタ・セクスアリス(鴎外)」

鄙陋

身分・性行が卑しく下品な・こと(さま)。 「財を軽んじ, 倹省することを知らざるものは, 遂に甚だ~なる事を為すに至るべし/西国立志編(正直)」

鄙言

通俗の言葉。 卑しい言葉。 鄙語(ヒゴ)。

鄙諺

通俗のことわざ。 卑しいことわざ。

都鄙

みやこと田舎。 都会と田舎。

鄙俚

言語・風俗などがいなかびていて卑しい・こと(さま)。 野卑。 「よし其言語は~なりとも/小説神髄(逍遥)」

鄙吝

いやしいこと。 けちなこと。

任鄙

任 鄙(じん ひ、? - 紀元前288年)は、中国戦国時代の秦の政治家・軍人。武王の時期に孟賁や烏獲・夏育と並び称され高官に取り立てられた著名な大力士の一人であった。 秦の昭襄王13年(紀元前294年)、秦の丞相魏冄の推挙で任鄙は漢中郡の郡守に就任した。 昭襄王19年(紀元前288年)、任鄙死去。

晋鄙

鄙率いる魏軍が邯鄲の援軍として進発した。 しかし、秦の強勢を恐れる安釐王は晋鄙に鄴城(現在の河北省邯鄲市臨漳県)に待機する様に命じ、晋鄙は命令通り軍の動きを止めた。少しして、信陵君が晋鄙の元を訪れ安釐王と晋鄙が持つ割符の片割れを見せ、軍の指揮権を渡す事を要求した。怪しんで指揮権の譲渡を渋った晋鄙

都鄙問答

『都鄙問答』(とひもんどう)は、江戸時代中期に成立した心学運動の経典というべき書である。町人道を説いた。問答体による構成は四巻16段からなっている。著者は丹波桑田郡東懸村(京都府亀岡市)の百姓の出の商人市井学者、石田梅岩(いしだ ばいがん、1685年(貞享2年) - 1744年(延享元年))。1739年(元文4年)刊。

信陵君

のためなら何でも行うでしょう」と言い、これに従って割符を得た。続いて侯嬴は「割符を持っても将軍の晋鄙が疑ったならば、朱亥に将軍を殺させ軍の指揮権を奪いなされ」と説いた。これを聞いた信陵君は涙した。「晋鄙将軍は歴戦の猛将。割符を見ても指揮権を渡さないだろうから、殺さざるをえない」と悲しんだためである。

紀元前502年

単武公が穀城を攻撃し、劉桓公が儀栗を攻撃した。単武公が簡城を攻撃し、劉桓公が盂を攻撃して、儋翩の乱は終息した。 魯が斉に侵攻し、廩丘を攻撃したが、敗退した。 斉の国夏と高張が魯の西鄙を攻撃し、晋の士鞅・趙鞅・荀寅が魯を救援した。 晋が衛と鄟沢で会盟したが、衛の霊公の怒りを買い、破談となった。 晋の士鞅が鄭に侵入し、蟲牢を包囲した。

紀元前307年

と、武王は大規模な援軍を編成して、甘茂を助けた。宜陽が陥落すると、韓の公仲侈が秦に入国して陳謝し、講和を願い出た。 秦の武王は力比べを好み、力士の任鄙・烏獲・孟説らはみな大官に上った。この年の8月、武王と孟説は鼎を持ち上げる勝負をしていたところ、武王は脈が絶えて突然死した。孟説の一族はみな処刑され

妲己

基本史料である『史記』殷本紀では、妲己は帝辛に寵愛され、帝辛は彼女のいうことなら何でも聞いたという。師涓に新淫の声・北鄙の舞・靡靡の楽を作らせた。賦税を厚くして鹿台に銭をたくわえ、鉅橋に粟を満たし、狗馬・奇物を収めて宮室いっぱいにした。沙丘の苑台を拡張して、野獣蜚鳥を

太平広記

詭詐(238)、諂佞(239-241)、謬誤(242)、治生(243)、褊急(244) 詼諧(245-252)、嘲誚(253-257)、嗤鄙(258-262)、無頼(263-264)、軽薄(265-266) 酷暴(267-269)、婦人(270-273)、情感(274)、童仆(275)、夢(276-282)

元史

程度復元可能という特徴を持つ。反面、一般的な漢文の知識では全く読めない文章となっており、伝統的な漢文教養を有する考証学者たちはこのような文章を「文は鄙俚を極む」と蔑んだ。逆に、近年のモンゴル史学者にとって直訳体は当時のモンゴル語原文を類推可能な貴重な資料であり、研究対象として注目されている。