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千葉氏胤

力である新田義宗と戦ってこれを破るなど、武功を多く挙げている。 しかし正平20年/貞治4年(1365年)、京都にて病となり、帰国途中の美濃国において重態に陥って、同年9月13日に死去。享年29。 死後、家督は子・満胤が継いだ。また、一子・聖聡は浄土宗の僧となり、増上寺を創建したことで知られる。なお、

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千葉孝胤

氏の実権を握っていた孝胤に対して、勝胤に古河公方から一字拝領を受けることを勧めた。これに対して孝胤は千葉氏の当主は代々千葉妙見宮で元服して籤で一字を定めるので不要と答えた。それならば、次男に一字拝領をと勧められたが、これも「次男は嫡男から一字拝領を受けるもの」だと答えて、拒絶した(『千学集抄』)。

千葉成胤

治承4年(1180年)、石橋山の戦いに敗れた源頼朝が安房国に逃れた際、祖父常胤や父胤正と共に頼朝の軍に参加し、平家の総帥清盛の姉婿藤原親政を生虜にするという快挙を成し遂げ、治承・寿永の乱を制する原動力となった。 『吾妻鏡』によると、叔父胤頼が安房国に逃れた頼朝への加勢と下総目代を誅することを

千葉胤直

ために離反して上杉氏と共に成氏を攻撃する(享徳の乱)。これに対して翌康正元年(1455年)に8代将軍足利義政から胤直・胤賢父子に対して賊である成氏に組せず、幕府に忠節を尽くしている事を賞する御内書が出されている。 ところが、かねてから親上杉派である胤直と重臣の円城寺尚任に不満を抱いていた叔父の馬加康

千葉秀胤

康持の4名の評定衆が更迭、更に6月13日に秀胤は下総埴生西・印西・平塚の所領を奪われ(金沢実時所領となる)、上総国に放逐された(『吾妻鏡』による。『葉黄記』寛元4年6月6日条には、その日に関東の飛脚が到来し、秀胤が本国に追放されたと報告されている)。ただし上総は秀胤の本国であり、寛大な処分とも言える

千葉実胤

胤らは武蔵へ、常縁は東庄の近い下総匝瑳郡へと逃れた。 その後、体制を立て直した常縁は、2月7日に老尾神社で戦勝祈願をした後に馬加城(現在の千葉市花見川区幕張町)を攻め落とし、6月12日に馬加康胤の子胤持を、11月1日には上総八幡(現在の市原市八幡)の村田川にまで逃れた康胤

千葉自胤

には外戚である扇谷上杉家の家宰太田道灌が江戸城を築城するなど古河公方側に圧力をかけ続けたが、自胤らは確たる所領を持たないため経済的に逼迫し、下総への帰還も思うに任せない状態であった。 その後兄が隠遁したため自胤が石浜城主となり幕府から認められた千葉氏当主となった。だが実際に

千葉親胤

田・竹俣等、頗る無興の顏色にて澁り勝なる體を見、謙信曰く、「加勢に堪を任する事、汝等残念に思ふと覺ゆ。されど、吾が兵は本國より長途を押來り、疲努未だ去らず。且、地勢にも不案內なり。赤井・足利・佐野の 面々は第一地の利を克く知れり。其の上、援兵の規模なれば、これに先鋒を命ずること勿論吾が本意たり。但し、

千葉利胤

弔ったものも含まれる。 ^ a b “佐倉市の文化財-史跡(2)「墓・碑 など」”. 佐倉市. 2020年3月15日閲覧。 ^ 天文19年11月23日の千葉妙見社(現在の千葉神社)の遷宮の際に臼井氏は当主が参列せず、同年12月24日には原胤貞が臼井城に入って

千葉常胤

伊勢神宮へ奉じこれが承認された。このことについて義朝の行為は紛争の「調停」であったとする見方もあるが、常胤の寄進状には「源義朝朝臣就于件常時男常澄之浮言、自常重之手、康治二年雖責取圧状之文」とあり、常胤にとっては義朝もまた侵略者の一人であることが判る。 以後、常胤は保元元年(1156年)の保元の乱に

千葉邦胤

千葉重胤がいたが、幼少であることを理由に北条氏の干渉を受けて北条氏政の実子である千葉直重が継いだ。 佐倉市の海隣寺にある海隣寺中世石塔群の石塔には、刻まれた銘文から邦胤の菩提を弔ったものも含まれる。 ^ a b “佐倉市の文化財-史跡(2)「墓・碑 など」”. 佐倉市. 2020年3月15日閲覧。 千葉氏の一族

千葉胤富

見等と合戦して勝利を収め(『千葉大系図』)、千葉宗家の勢力を保った。 佐倉市の海隣寺にある海隣寺中世石塔群の石塔には刻まれた銘文から胤富の菩提を弔ったものも含まれる。また、佐倉市大佐倉の勝胤寺にある勝胤寺中世石塔群は胤富などの菩提を弔ったものである。 ^ 『千学集抜粋』に見られるフリガナ。 ^ “原文書(はらもんじょ・市指定文化財)”

千葉勝胤

隠居し、子の昌胤に家督を譲ったが、実権は保持しており、古河公方家の内紛にも関与した。 永正14年(1517年)には僧籍にあった古河公方足利政氏の次男空然が還俗し足利義明を名乗り挙兵、上総武田氏とともに千葉氏の家臣である原氏の小弓城(現在の千葉県千葉市中央区南生実町)を制圧し小弓公方を自称した。これに

千葉胤明

明治天皇御製集 大阪毎日新聞社ほか 1922 書道講座 第12 色紙の書方 雄山閣 1930 明治天皇御製謹話 講談社 1938 折々ぐさ 千葉胤明遺詠和歌集 岡部絹子 1989 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章 [脚注の使い方] ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

千葉胤宗

を離れたため、胤宗が留守を預かることになり千葉氏の第10代当主となる。なお六浦荘地頭の金沢北条氏は下総国守護の千葉氏と縁を重ねており、北条顕時は娘を胤宗に嫁がせることによって関係を深めている。このため北条氏との関係は深く、胤宗の名も得宗家当主・鎌倉幕府第8代執権・北条時宗より偏諱を受けて名乗ったものとみられる。

千葉胤平

某年8月13日付の「平高胤寄進状」にもうかがえ、実際は当初嫡子であった高胤が父の領地を継いだものの早世したため、一旦父である胤貞が再度家督および領地を継承し、その後に胤平へと継承された可能性が高い ^ 小笠原長和「建武期の千葉氏と下総千田荘」『史観』65・66・67合冊、1962年。  表示

千葉頼胤

人を統制したことが指摘されており、地域棟梁格の有力御家人であった千葉氏もその統制下にあった。その統制の主体である烏帽子親、すなわち有力御家人が一字を賜る相手が将軍から得宗家へ移行したという見解も示されており(詳細は北条氏#北条氏による一字付与についてを参照)、泰胤が北条泰時、頼胤が北条時頼、宗胤・胤

千葉満胤

た、聖聡の弟子で日比谷飯倉の天陽院(現在は東京都港区芝公園に所在)を開いた生譽珍公も満胤の子とする伝承がある。 ^ 吉田政博「中世武蔵国における浄土宗の展開過程」『戦国期東国の宗教と社会』吉川弘文館、2022年、ISBN 978-4-642-02973-5 P81-82. 上杉禅秀の乱 千葉氏の一族

千葉良胤

関係は混乱状態にあった。この時期に千葉氏の嫡男あるいは当主であった良胤が北条氏の姿勢に不信感を抱き、従来北条氏一辺倒であった千葉氏の政策の見直しを行おうとし、これに反対した胤富や重臣達がこれを廃して代わりに邦胤を擁立した可能性については否定できない。 天正18年(1590年)の小田原征伐で北条氏に

千葉胤綱

『古今著聞集』によると、年若い胤綱が将軍御所の侍の間で、当時権勢を振るっていた重鎮の三浦義村の上座に座り、義村が「下総犬は臥所を知らぬぞとよ」と皮肉ると、胤綱は「三浦犬は友をくらふ也」と切り返し、和田合戦での義村の裏切りを批判したという。 [脚注の使い方] ^ a b 安田元久