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尸毗

[しび]
⇒ 尸毗王

Kata Terkait

尸

〔「しにかばね」の意〕 (1)死んだ人の体。 死骸(シガイ)。 かばね。 「生ける~」 (2)「尸冠(シカバネカンムリ)」に同じ。 <i>~に鞭(ムチ)打・つ</i> 死んだ人の悪口を言う。 死屍(シシ)に鞭打つ。 <i>~を晒(サラ)・す</i> 野外で死に, 弔われずに放置される。

尸

(1)死体。 死骸。 しかばね。 「~を山野にさらす」「~に鞭(ムチ)打つ」 (2)骸骨。 (3)「尸冠(シカバネカンムリ)」に同じ。

荼毗

〔梵 jhāpeta〕 火葬のこと。 <i>~に付・す</i> 死者を火葬にする。

毗曇

毗曇(ひどん、ピダム、? - 647年)は、新羅第27代善徳女王末期の真骨と推定される貴族。 新羅貴族の合議機関である和白会議を主導する上大等の地位にありながら反乱を起こした逆臣。『三国史記』善徳女王条、金庾信の列伝に登場する。 生年、父母など出生に関する事項および業績などについては記録が全く残っ

梁毗

梁 毗(りょう ひ、527年 - 610年)は、中国の隋の政治家。字は景和、号は长璞。本貫は安定郡烏氏県。 北周の滄兗二州刺史の梁茂の子として生まれた。武帝のとき、明経により登用され、布憲下大夫に累進した。北斉を滅ぼした戦いでは、行軍総管長史をつとめ、并州での勝利に功績があった。別駕に任じられ、儀

辛毗

を衛尉に任じた。その後も辛毗は、曹叡の宮殿造営により、民衆が疲弊していることを強く諫言した。 蜀漢の北伐により張郃が戦死したとき、曹叡はその死を強く愛惜した。陳羣もこれに同調する意見を述べたが、辛毗は弱気な発言をすべきではないと思い、陳羣の意見に反対し、発言を撤回させたという(『魏略』)。

栄毗

するためだったようだ」と栄毗に言った。栄毗は「法を守ること一心であり、ただ公に重ねて推薦されるのを恐れるだけです」と答えた。楊素は「さきにいったのは戲れだ。卿が法を守ることはわたしの望みでもある」と笑って言った。 ときに晋王楊広が揚州にいて、長安の情勢を探らせるために、張衡を派遣して道筋に馬坊を置き

尸諫

身命を捨てて主君をいさめること。

三尸

道教で, 人の腹の中にすむといわれる三匹の虫。 この虫が庚申(コウシン)の夜, 人の寝ている間に天に昇って, その罪過を上帝に密告すると長生きできないという。 → 庚申待

尸素

「尸位素餐(シイソサン)」の略。

尸子

『尸子』に「天地四方を宇といい、往古来今を宙という」と言う(『世説新語』排調篇の劉孝標注に引く)。「宇宙」という言葉はこれにもとづく。 「渇しても盗泉の水を飲まず」の故事は『尸子』を出典とする(『史記』鄒陽列伝の索隠などに引用する)。 Paul Fischer, Shizi: China's First

尸部

日本:しかばね・かばねだれ・かばね・しかばねかんむり 中国:尸字頭 韓国:주검시부(jugeom si bu、しかばねの尸部) 英米:Radical corpse 尸 広韻 - 式脂切、脂韻 詩韻 - 支韻、平声 三十六字母 - 審母三等 日本語 - 音:シ(漢音・呉音) 訓:しかばね 中国語 -

毗有王

毗有王(ひゆうおう、生年不詳 - 455年)は百済の第20代の王(在位:429年 - 455年)である。 先代の久尓辛王の異母弟。腆支王は八須夫人と解氏の女性という2人の夫人がおり、久尓辛王は八須夫人から生まれ、毗有王は解氏の女性から生まれたとみられる。なお、八須夫人は倭人。『三国史記』には諱・諡は

司馬毗

られており、その配下に鎮軍長史周顗がいた。 父の司馬越から「王承・趙穆・鄧攸から、全てを学ぶように」と諭される厳命を受けた。 永嘉5年(311年)正月、懐帝が苟晞に司馬越を密かに葬らせる密命を出したため、司馬越は司馬毗を残して洛陽を離れて項城にむかった。間もなく司馬越は苟晞を敗走させる

杜叔毗

した。叔毗は母の言葉に感動し、後に京城で手ずから曹策に斬りつけ、その遺体の四肢を切断して、復讐を遂げた。官の縛について処罰を願い出たが、宇文泰にその壮気を賞賛され、特に一命を赦された。 北周のとき、叔毗は都督・輔国将軍・中散大夫の位を受けた。母が死去すると、辞職して喪に服し、哀哭のあまり骨の立つまで

酒井忠毗

ます」の字は田+比(「毘」の異体字)。 天保4年(1833年)、父の死去に伴い、家督を継いだ。天保14年(1843年)から若年寄を3度も歴任した功績を認められ、文久元年(1861年)9月に1千80石を加増され、翌年6月には無城大名から城主格に任じられた。

伊尸品王

伊尸品王(いしひんおう、明王、? - 407年4月10日)は、金官伽倻の第5代の王(在位:346年 - 407年)。父は居叱弥王、母は阿志である。王妃は貞信、息子に第6代の王である坐知王(神王)がいる。 表示 編集 表示 編集

伊陵尸逐就単于

延熹9年(166年)、張奐が大司農となり中央に配属され、辺境から張奐が去ったことを知った鮮卑は、南匈奴・烏桓と連合し縁辺九郡を侵した。朝廷はこれを憂い、ふたたび張奐を護匈奴中郎将とし、これらを討たせた。南匈奴・烏桓は張奐が復職したことを知るとすぐに降伏し、鮮卑は塞を出て去っていった。 張奐は単于が国内を統率する能力に欠けている

醢落尸逐鞮単于

儀を護衛した。比の弟の莫が南単于の位に就き、帝は使者を送り、璽を印した書を持たせて慰撫し、璽綬を送り、冠・幘・絳単衣3着・童子佩刀・緄帯各1を送った。また、繒・彩四千匹を賜って諸王・骨都侯以下に賞賜させた。それからというもの、単于が薨去した際の弔祭・慰賜はこれを常例とした。 『後漢書』(南匈奴列伝)