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Kamus

Detail Kata

廂

[ひさし]
(1)建物の外壁から差し出した, 日光・雨などを防ぐための小さな片流れの屋根。 のき。
(2)寝殿造りなどで, 母屋(モヤ)の外側に付加された細長い下屋(ゲヤ)部分。 その外に簀(ス)の子縁を設ける。 広縁。 ひさしのま。 のき。
(3)帽子の, 額の上に突き出た部分。 つば。
(4)「庇髪」の略。
<i>~を貸して母屋(オモヤ)を取られる</i>
(1)一部を貸したために, やがて全部を, あるいは重要な部分を奪われる。
(2)やさしくしてやった者から恩を仇で返される。

Kata Terkait

土廂

数寄屋風書院や茶室などで, 地面に柱を立て, 深く差しかけた庇。 捨て庇。 どびさし。

土廂

「つちびさし(土廂)」に同じ。

西廂記

府尹に就任した張生が戻り、杜将軍もやってきて嘘は簡単に露見する。張生と鶯鶯は結婚し、大団円で幕を閉じる(以上第5本)。 伝統的には表向き『西廂記』は淫書とされ、良家の子女が読むべきものではないとされた。しかし実際には大いに流行し、傳田章によると清末までに100種に及ぶテクストの存在が確認されるという。

城廂区

城廂区(じょうそうく)は中華人民共和国福建省莆田市に位置する市轄区。 568年(光大2年)に莆田県が設置され、区域はその管轄区域とされた。1279年(至元16年)、興化路城区及びその近郊区域を東廂・南廂・左廂・右廂の四廂とし、城廂録事司を設置したことより「城廂」の名称が生まれた。 1983年、莆田県城廂鎮に城廂区が新設された。

飛鳥稲淵宮殿跡

6メートル)、梁行4間(南北総長10.2メートル)の四面廂付の建物になり、北にある東西棟は桁行14間(総長24.6メートル)、梁行4間(8.8メートル)の南片廂つき建物になる。東の2軒の南北棟は、梁行き4間(8.8メートル)桁行15間(26.4メートル)の西片廂付建物になる。この復元により、西側にも東側の2

弥勒寺跡 (関市)

42メートル)程の石積。その上の8個の礎石が残存する。 構造:四面廂を入れて桁行5間 36尺(10.9メートル)・7.3尺(2.21メートル)等間×梁行4間 27尺(8.18メートル)・6.9尺(2.09メートル)等間。 講堂(1998年調査) 基壇:24×14メートル 構造:四面廂付。廂(ひさし)は約8尺(2

銭塘県

南宋になると杭州への遷都が実施され、銭塘県及び仁和県は臨安府の首県とされた。銭塘県城内は6廂(左一南廂、左二廂、右一廂、城北右廂、城西廂、左一北廂)、52坊、城外には13郷62里が設置された。 元代から清末にいたるまで銭塘県は杭州路の管轄に置かれ、杭州府治が設置されて

仁和県

南宋になると杭州への遷都が実施され、銭塘県及び仁和県は臨安府の首県とされた。銭塘県城内は6廂(左三廂、右二廂、右三廂、右四廂、城南左廂、城東廂)、37坊、城外には11郷44里が設置された。 元代に仁和県は杭州路の管轄、明代から清末にかけて杭州府の管轄に置かれ、杭州府

常陸国府跡

での建物の変遷が確認されているが、その中で大きく分けて5回の建て替えがあったとされる。最初の7世紀末の建立では、国庁の正殿として桁行6間の身舎の東に廂を有する南北棟が、さらに脇殿として東西棟、前殿として南北棟が配置されていた。 その後、8世紀前半の建て替えにおいて建物の配置は大きく変化する。一辺1

黄河改道

積し、本流は現在の西華・淮陽を経て頴河に入り、そこから頴河を経て淮河に入った。 1855年8月1日(咸豊5年6月19日)、黄河が河南省蘭考北岸の銅瓦廂で決壊した。川の水はまず西北に流れ、その後東北に流れを変え、山東境内で済水(別名大清河)を借りて渤海に入る。仙鳳趾黄河が分流される前の下流域は、現在

旧大原家住宅

「ごあいさつ」(語らい座大原本邸サイト) ^ 主屋の屋根形式は「入母屋造」とされているが、厳密には切妻造屋根の妻側に廂(ひさし)を付けた擬似入母屋造である。正面から見ると入母屋造に見えるが、側面から見ると、1階部分の壁と、廂より上の妻部分の壁とには前後関係がなく、同一平面にあることがわかる。 語らい座大原本邸 旧大原家住宅

本薬師寺

土壇に、花崗岩による方形座を備えた19個の礎石が残り、そのうちの4個は医王院の本堂や庫裏に用いられている。金堂は礎石の配置から、桁行(東西)76尺7寸(約24.2メートル)、梁間(南北)39尺(約11.9メートル)で、桁行7間、梁間4間の両廂(りょうびさし)の建築物であったと推定さ