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洞源院

江戸時代の伊達藩政には、石巻と江戸を御穀船(千石船)が盛んに往来するようになり、乗船員の航海安全のため、「八大竜王神」を勧請奉安して祈祷の道場としても栄え、広壮優麗な七堂伽藍を誇り大いに隆盛した。しかし、第22世南浦玉英大和尚代の1871年(明治4年)10月10日白昼火災のため、七堂伽藍がすべて焼尽してしまった。

Kata Terkait

院洞駅

院洞駅(ウォンドンえき)は大韓民国慶尚南道梁山市院洞面院里にある、韓国鉄道公社(KORAIL)京釜線の駅。 島式ホーム2面3線を有する地上駅。各ホームと駅舎は跨線橋で結ばれている。 院洞面事務所 院洞初等学校 梁山院洞郵便局 院洞治安センター 洛東江 院洞川 1905年1月1日 - 当時簡易駅で営業開始。

洞院家

を持つ家である。 家祖実雄は後嵯峨天皇のもとで左大臣に到達、後宇多・伏見天皇の外祖父として権勢を誇る。大覚寺統・持明院統双方の国母を出したことから、歴代当主が大臣に任じられるなど朝廷で重んじられ、また有職故実に明るい博識な家柄として多くの典籍を

長源院

916年(大正5年)8月8日没、享年70 江目金太郎 - 高八十石、御家人、静岡学問所五等教授、1871年(明治4年)9月17日没、享年25 小笠原鎚太郎 - 四百石の旗本、大御番、1895年(明治28年)12月19日没、享年69 小野忠義 - 高二百俵、旗本、大御番、慶応3年狙撃隊、相良勤番組二

養源院

護摩堂(附:廊下) 鐘楼堂 中門(附:番所、築地塀2棟) (附:表門) 金地着色松図(襖8面、戸襖4面)12面 - 俵屋宗達筆。 着色杉戸絵(表獅子・裏波に麒麟図、表獅子・裏白象図)4枚(8面) - 俵屋宗達筆。 紙本金地著色唐獅子図(仏壇羽目板壁貼付)3面 - 狩野山楽筆。平成29年(2017年)3月31日指定。

崇源院

崇源院(すうげんいん/そうげんいん)は、安土桃山時代から江戸時代初期の女性。近江の戦国大名浅井長政の三女で、母は織田信秀の娘であるお市の方(織田信長の妹)。崇源院は院号であり、一般には江(ごう)か小督 (おごう)の名で知られるが、諱は達子(みちこ)で、追贈された贈位は従一位。 長姉の淀殿(茶々)、次姉の常高院(初)とで

龍源院

方丈北庭「龍吟庭(りょうぎんてい)」 - 方丈北側に広がる三尊石組からなる室町時代の枯山水庭園で、相阿弥の作庭という。中央の石組は須弥山を表し、青々とした杉苔は洋々たる大海を表している。 開祖堂 - 開祖・東渓禅師の塔所となっている一重入母屋造り・檜皮葺きの建物で、南北朝時代・鎌倉時代・室町初期時代の禅宗様の粋を取り入れた昭和の代表作である。

洞院実守

洞院 実守(とういん さねもり)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。左大臣・洞院実泰の四男。庶兄公賢の養子となり、父から家門継承を期待されるも達せられず、南北朝間を往来した。官位は正二位・大納言(北朝)、右大臣(南朝)。 元亨4年(1324年)に11歳で叙爵。侍従・左近衛少将・春宮権亮・

洞院愔子

洞院 愔子(とういん いんし、寛元4年(1246年) - 元徳元年8月30日(1329年9月23日))は、鎌倉時代の女性。後深草天皇の後宮で、伏見天皇の国母。女院として玄輝門院(げんきもんいん)。法名は自性智。父は従一位左大臣洞院実雄。 後深草天皇の後宮に入り、文永2年(1265年)に伏見天皇、文永

洞院公賢

延文五年四月六日条(卒伝) 『内乱のなかの貴族 南北朝と「園太暦」の世界』(林屋辰三郎、1991年、角川選書、ISBN 4047032204) 『宮廷公家系図集覧』(近藤敏喬編、東京堂出版、1994年) 園太暦 石山寺縁起絵巻 - 本絵巻の企画・制作に公賢が関わったとする説が有力。 拾芥抄 表示 編集 表示 編集

洞院季子

洞院 季子(とういん すえこ/きし、文永2年(1265年) - 延元元年2月13日(1336年3月26日))は、鎌倉・南北朝時代の女性。父は洞院実雄、母は但馬局(大神能直の女)。伏見天皇妃で、花園天皇、寛性入道親王らの母。院号は顕親門院。 永仁5年(1297年)1月29日従三位、文保元年(1317

洞院実熙

に辞職、6月出家し、東山で隠居生活を送った。法名を元鏡という。 没年は従来不明とされてきたが、近年、綾小路有俊の記した寛正5年(1464年)の「殿上淵酔記」(加越能文庫本『松雲公採集遺編類纂』8所収)によって長禄3年(1459年)11月10日に薨去したことが明らかにされた。享年51。

西洞院家

時慶(権大納言飛鳥井雅綱の子の安居院僧正覚澄の子で河鰭家に養子に入っていた。近衛家の家札で同家の殿上人になるなど近衛家と近しかった人物)が養子に入ることで再興された。このため河鰭家は一時的に当主が不在となり中絶している。 時慶の次男時庸が平松家、五男忠康が長谷家、六男時

洞院公定

洞院 公定(とういん きんさだ)は、南北朝時代から室町時代初期にかけての公卿。内大臣・洞院実夏の長男。官位は従一位・左大臣。後中園左大臣と号す。太政大臣を務めた洞院公賢の孫にあたる。 暦応3年(1340年)11月21日叙爵。ところが後に父と不仲となって廃嫡され、替わりに弟・公頼が後継者とされた。とこ

洞院実雄

男:公風 男:定勝 - 醍醐寺座主 男:実修 男:守恵(1244‐1313) - 東寺長者 男:公潤 男:公春 女:近衛基平室 女:鷹司基忠室 女:西園寺公蔭室 女:三条公親室 女:後宇多天皇・後醍醐天皇官女(『本朝皇胤紹運録』「後醍醐天皇系図」では名前は洞院実子) ^ 藤原 1903, vol. 6

洞院公守

91年)に両職を辞した。永仁4年(1296年)には従一位に至る。 正安元年(1299年)太政大臣となるが、同年のうちに辞する。嘉元3年(1305年)素懐により出家した。法名は素元(そげん)。 文保元年(1317年)7月10日、薨去。享年69。山本相国(やまもと しょうごく)と呼ばれ、十三代集などには山本入道前太政大臣(やまもと

西洞院通

近畿農政局(西洞院下長者町下ル) 五條天神社(西洞院松原) 目川探偵(西洞院六条下ル) つくば開成高等学校京都校(西洞院七条) 下京区総合庁舎(西洞院塩小路上ル) アパホテル京都駅前(西洞院塩小路下ル) 京都市営バス九条営業所(西洞院九条下ル) 京都市内の通り

洞院実世

『久米田寺文書』正平12年(1357年)9月17日付公卿評定文の「参仕人々」の中に見える「左大臣」は実世のこととする説がある(『大日本史料』)。 ^ 『南朝公卿補任』『南山巡狩録』など。『南朝編年記略』には、実世が長谷寺で薨じ、与喜山に葬られたことが見えるが、真偽の程は明らかでない。 ^ 『太平記』巻22「義助被参芳野事并隆資卿物語事」

東洞院通

七条と塩小路の間のみは片側二車線であるが、それ以外の区間は一方通行の細い道である。 京都御苑 丸太町 中京郵便局 三条角 NTT西日本京都支店 三条角 京都市女性総合センター 六角下ル 京都市中京青少年活動センター 京都市男女共同参画センター(ウィングス京都) 大丸京都店 四条上ル(正面入口は四条通) 阪急京都本線 - 烏丸駅 ホテル日航プリンセス京都

洞院実夏

実守が持っていた洞院家の文庫の印鎰は没収されて実夏に与えられている)。1362年、南朝軍が再び京都に入って後光厳天皇が再び行幸に迫られた時、実夏は天皇に同行して近江国に入り、実守は南朝に再度参候したことから、後光厳天皇は実守に与えた家領を没収して実