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源頼実

住吉大社に祈請した後に自らの命と換えて得た一首とはこの歌であったという(『袋草紙』『無名抄』『今鏡』)。   落葉如雨といふ心をよめる 木の葉ちる宿は聞き分くかたぞなき時雨する夜も時雨せぬ夜も — 『後拾遺和歌集』 巻第六 冬 382 父:源頼国(?-1058?) 母:藤原信理の娘 妻:不詳 男子:源頼季? 男子:暹圓

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源頼兼

京中で騒ぎとなるが、『玉葉』に見えているこの記事の中で頼兼は九条院の非蔵人を務め五位となっていたことが確認でき、また頼兼の「党等類」が「美乃源氏頼光末葉」と称されていたことが記されている(同書同年6月29日条)。治承4年(1180年)5月の以仁王の挙兵における動向は詳らかでなく、寿永2年(1183年

源範頼

した『保暦間記』の史料としての信頼性を疑う説もある。 8月2日、範頼は頼朝への忠誠を誓う起請文を頼朝に送る。しかし頼朝はその状中で範頼が「源範頼」と源姓を名乗ったことを過分として責めて許さず、これを聞いた範頼は狼狽した。10日夜、範頼の家人である当麻太郎が、頼朝の寝所の下に潜む。気配を感じた頼朝は

源俊頼

小倉百人一首 うかりける人を初瀬の山おろしよ激しかれとは祈らぬものを(『千載和歌集』恋二・707) 百人秀歌(小倉百人一首の原撰本) 山桜咲きそめしより久方の雲居に見ゆる滝の白糸(『金葉和歌集』春・50) 百人秀歌と小倉百人一首の両方に採られている歌人で、異なる歌が採られているのは俊頼のみである。 家集『散木奇歌集』(さんぼくきかしゅう)

源頼信

『古事談』や『今昔物語集』には頼信に関する説話が幾つか記されている。 墓は、河内源氏の菩提寺の通法寺近くの大阪府南河内郡太子町に、義家と共にある。 甲斐守在任時、平忠常の乱が起き長期化した、朝廷は平直方に代えて、源頼信を追討使に任じた。

源頼義

羽国の国守に援軍を派遣するよう依頼したが、当の出羽守・源斉頼は一向に援軍を派遣する気配を見せなかった。これを嘲笑うかのように安倍軍は奥六郡を思うままに支配し六郡の外を侵すことも度々であった。さらには先に安倍に寝返った藤原経清などは陸奥国内の諸郡に対して、赤符(国の徴符)ではなく白符(経清の私的な徴符

源頼隆

情を示し、大軍を引き連れて随身した常胤よりも上座に据えるなどの厚遇を施したという。 その後も源氏一門として遇され、文治元年(1185年)9月3日、頼朝が父義朝の遺骨を勝長寿院に埋葬した際、遺骨を運ぶ輿を頼隆と平賀義信が運び、頼隆・義信・惟義のみを御堂の中に参列させている。建久元年(1190年)10月

源頼家

に線を引き、「所の広狭は其の身の運否に任すべし。使節の暇を費し、地下に実検せしむるにあたはず。向後堺相論の事に於いては、此の如く御成敗あるべし。若し未塵の由を存ずるの族に於いては、其の相論を致すべからず」と述べたという。 だが、『吾妻鏡』によれば同年8月には側近の僧・源性が陸奥国伊達郡の堺相論の実検

源頼弘

、陽明門院蔵人) 男子:明助(摩尼坊阿闍梨) [脚注の使い方] ^ 『尊卑分脈』に大叔父・源頼範の子として「頼弘」の名がみえているほか、弟の頼綱の子範弘(戸島蔵人)と訛伝混同されるなど同人であるのかは不明。 藤原公定撰 「清和源氏(上)」『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』8 (吉川弘文館、1904年)

源頼朝

れている。一方で、政子の発言は頼家を貶めるための『吾妻鏡』の曲筆で、実際にはそのような発言はなかったとする説もある。 28日の夜に御家人の工藤祐経が曾我兄弟の仇討ちに遭い討たれる。『保暦間記』によると、宿場は一時混乱へと陥り、頼朝が討たれ

源頼房

にあった興福寺の大衆が国司である父・頼親の邸宅に攻め寄せ、頼房がこれに矢で応戦して多数の僧を殺害したことから、激昂した興福寺の訴えにより翌年(1050年)正月、頼親は土佐国に、頼房は隠岐国に配流されることとなった(『扶桑略記』)。 康平5年(1063年)12月、赦免されて、本位に復する

源経頼

長絹20疋を持った使いを経頼の許へ遣わせたという。(『古事談』) 宇治殿が殿上の小板敷(清涼殿殿上の間の板敷)にて経頼を譴責した。源右府(源師房)のことを謗ったためという。経頼が汗を流しながら退出したところを、紫宸殿の北庇で源経長

源頼資

見任。 長暦3年1月1日(1039年2月2日)、「今日蔵人範基頼資蒙勘当了、頭弁奉之者、晦日追儺四方拝并御簾等行事範基也、而与頼資相論之間、不勤件事退出、至頼資者、此度無過、而共有勘当、~今年栄爵之巡也、如何々々」(『春記脱漏補遺』) 長暦3年11月15日(1039年12月9日)、左衛門尉見任。

源頼清

後守に転任する頼清に贈った相模の和歌がある。また『今昔物語』(巻12ノ36)には、貧乏暮らしをする左京大夫として登場する。 子孫は信濃国北部に勢力を扶植し、村上氏、波多氏と称して繁栄している。 父:源頼信 母:修理命婦 妻:藤原斉信娘 生母不明 長男:源仲宗 男子:源兼宗 男子:源清宗 男子:永源 男子:源家宗

源頼定

定の昇進は一切なく、昇殿すら許されなかった。綏子との間に生まれた男子は後に寺に預けられ僧となった頼賢だという。 その後頼定は、今度は一条天皇の崩御後孤閨を託っていた承香殿女御・藤原元子と密かに情を交わし始める。これを元子の父・右大臣藤原顕光に直接見つけられ発覚する。怒った顕光は手ずから元子の髪を切っ

源頼光

えられている。また、古典『保元物語』や『梅松論』では古来の勇者の代表格として同時代の藤原保昌と併称され(酒呑童子討伐説話も古い形態では、源頼光と藤原保昌が両大将として描かれており、藤原保昌を酒呑童子退治の主人公とした説話もある)、『平家物語』では精兵の1人として頼光の名が挙げられているなど頼光に武勇的人物像を求める傾向もある。

源頼俊

妨害するために事件を起したとも見られている。ちなみに、同じ解状には「荒夷(あらえびす)が兵を発し、黎民が騒擾す」とあり、蝦夷が依然として朝廷の支配に服さぬことを記している。治暦3年(1067年)以来、清原氏の助力を以って衣曾別嶋荒夷(えぞがわけしまあらえびす)”と“閉伊七村山徒を平定し日本の東端(北

源頼政

『平家物語』「御輿振」は安元の強訴で頼政が縫殿の陣(朔平門)を守ったとするが、九条兼実は「神輿を射る事、武士の不覚なり。先年成親卿の事に依り、大衆参陣の時、左衛門の陣方、頼政これを禦ぐと雖も、大衆軍陣を敗る能はず、又濫吹を出さず、事の謂はれその人勢今度の万分の一に及ぶべからず」と記している。これにより頼政が、嘉応元年(1169年)

源頼範

『尊卑分脈』に長兄頼光の次男頼家と同様の子の記載がある。 ^ 甥頼国の長男頼弘と同名であるが、同じく『分脈』の記述では子に「為綱」とあることから、上記頼綱の子「範弘(戸島蔵人)」と訛伝混同している可能性がある。 元木泰雄 『源満仲・頼光 殺生放逸 朝家の守護』 (ミネルヴァ書房、2004年) 藤原公定撰 「清和源氏(上)」『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』8

源斉頼

長元8年(1035年)に催された藤原頼通家歌合(「関白左大臣頼通歌合」)に源頼実、藤原経行らと共に蔵人所雑色として参加したことが知られる。(「賀陽院水閣歌合」『類聚歌合巻』)。蔵人兼右兵衛尉在任時であった天喜3年(1055年)には内裏の蔵人所町屋(蔵人の詰所)に逃げ込んだ抜刀の暴漢を郎等の滝口武者源