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Kamus

Detail Kata

藤

[ふじ]
(1)マメ科フジ属の植物の総称。
(2)マメ科のつる性落葉木本。 山野に自生し, また観賞用に植える。 つるは右巻き。 葉は奇数羽状複葉。 四, 五月頃長い総状花序を垂れ, 紫色・白色などの蝶形花をつける。 長い莢(サヤ)の実がなる。 つるは丈夫で縄や細工物に利用。 ノダフジ。 ﹝季﹞春。 《草臥て宿かる比や~の花/芭蕉》
〔「藤の実」は ﹝季﹞秋〕
→ ヤマフジ
(3)家紋の一。 藤の花や葉・枝をかたどったもの。
(4)襲(カサネ)の色目の名。 表は薄紫, 裏は青。 ふじがさね。
(5)「藤色」の略。
「~の末濃(スソゴ)の織物の御几帳に/栄花(御裳着)」

藤

[とう]
姓氏の一。

Kata Terkait

藤原高藤

観10年(868年)従五位下に叙せられる。清和朝から光孝朝にかけて、右兵衛権佐・左近衛少将・兵部大輔といった武官や尾張守など諸国の地方官を歴任したが、父・良門が微官のまま早逝したこともあり昇進は遅く、長らく位階は従五位に留まった。 仁和3年(887年)娘・胤子の夫である光孝天皇の第七皇子・源定省が

藤原藤成

左大臣・藤原魚名の五男。秀郷流藤原氏の祖。官位は従四位下・伊勢守。 弘仁2年(811年)播磨介に任ぜられ、弘仁4年(813年)移配させた夷俘に対する教化や、夷俘からの要請に対応するための専当官を兼ねる。のち、播磨守・伊勢守と嵯峨朝においては主に地方官を務めた。この間、弘仁6年(815年)正五位下、

藤間藤子

振付で上演されている。この二つの作品は、現在も彼女の振付で上演されている。 常磐津 景清 清元  山帰り 長唄  賤機帯 長唄  伊勢参宮 長唄  都風流 清元  北州 他。 1979年 日本芸術院賞受賞 1985年 女性として初めて重要無形文化財「歌舞伎舞踊」の保持者に認定される。 1987年 芸術院会員。

藤岡藤巻

れ、2003年から活動を開始した。その後、藤岡と藤巻の友人だった秋元康にバンド名の命名を依頼したところ、秋元から「"藤岡藤巻"がいいんじゃない」と言われたため、2004年に「藤岡藤巻」に改名した。2006年にSME Recordsから「よろけた拍子に立ち上がれ

関藤藤陰

明治9年(1876年)12月29日)は、江戸時代末期(幕末)の儒学者。幼名は元五郎、諱は成章、字は君達。養家の石川姓を名乗っていたため、通称と合わせて石川 和助(いしかわ わすけ、和介とも)と呼ばれる。江戸幕府老中・福山藩主阿部正弘の側用人(君側御用係)として幕政に関与する。明治維新の際には執政として藩論を新政府支持でまとめた。

斎藤利藤

日運。以前は叔父斎藤妙椿と同一人物と考えられてきたが、別人とされる。 父の死後、守護代職を継承するが、実権は叔父の斎藤妙椿に握られ、守護代として力を揮う事は出来なかった。妙椿が死ぬと、室町幕府に接近し幕府の権威を借りて、異母弟で妙椿の養子となった利国(妙純)と争い、文明12年(1480年)8月には遂

内藤就藤

豊前松山城の城主となると、天野隆重がその補佐につき、就藤や毛利元種・元員父子などが共に在城した。同年の年末に歳暮として元就に小袖一領、織物と革袴上下一具を献じた。 永禄11年(1568年)、堀立直正や麻生鎮里らと共に豊前香春岳城を守備する。 永禄12年(1569年)5月8日に毛利輝元の命を受け、5月10日に門司城に登城。

遠藤 (藤沢市)

延元年)までは他の定助郷の困窮から新たに代助郷が加えられた。 1827年(文政10年)の関東取締出役による改革組合村設立の際は藤沢宿寄場に属した。 民業は、農業が主で余業で養蚕のほか、冬季に男は薪炭を産し、女は紡織をした。 江戸時代末期には、寺子屋の郷学琢成(たくせい)学舎(後の藤沢市立秋葉台小学校)が開かれた。

藤岡町藤岡

藤岡町藤岡 藤岡町藤岡(ふじおかまちふじおか)は、栃木県栃木市の大字。郵便番号は323-1104。   栃木市の南部、藤岡地域の南部に位置し、東で藤岡町赤麻、南で藤岡町内野、群馬県邑楽郡板倉町大字海老瀬、西で群馬県邑楽郡板倉町大字離・大字除川、北で藤岡町甲・藤岡町大前と接する。 栃木市役所藤岡

後藤藤四郎

贈り、後に家光の許へ渡ったと考えられる。 1639年(寛永16年)9月、家光の長女である千代姫が徳川光義(後の尾張徳川家2代藩主光友)との婚礼の婿引き出物として光義に贈られた。元禄末期に老中より尾張藩附家老の嫡男である重臣に対して、藩主が江戸へ出府するに当たって将軍への手土産として後藤藤四郎を献上

加藤藤太郎

崎製紙を創設、初代社長に就任。再建にあたり、融資面で東京高等商業学校同級生の元第一銀行常務の小平省三のバックアップを得た。当時の企業では、給料の遅配欠配は日常茶飯事だったが、無理してでも支払った。また給料だけでなく物も配ったりした。 1951年(昭和26年)初めて従業員持株制度を導入する。以降5回に

藤沢 (藤沢市)

白旗神社 諏訪神社 船玉神社 伊勢山 金砂山観音堂 庚申堂 藤沢御殿跡 御殿辺公園 御幣山城跡 北向地蔵 日限地蔵 小栗判官、照手姫の墓 伝・源義経首洗井戸 旧・モーガン邸 桔梗屋 - 明治44年(1911年)に建築された店蔵。国登録有形文化財(建造物)2013年(平成25年)登録 江の島道 大清水境川アジサイロード

遠藤藤五郎

安政3年(1856年)、同村海岸部の開墾許可を領主である三保神社神職の太田健太郎に願い出たが容れられず、小前百姓の代表として幕府代官所に訴願して勝訴したが、その後文書に偽判を使用したとして捕らえられ、獄死した。毒殺されたとする説もある。その死後、「藤五郎稲荷」として神に祀られた。 [脚注の使い方] ^ a b c d デジタル版

藤田川藤介

が無制限に食事を行う余裕があるとは言い切れなかったという実情がこのような非常識極まる行動の背景にあった。 長年にわたって貯めた金で東京日本橋に数軒の貸家をもつ大家となったが、娘夫婦に貸す際、実の娘からは家賃がとれないと、家を他人名義にして家賃を徴収した。このため本人の死後、実の娘であるのに家を相続することができなかった。

佐藤藤三郎

『根に挑む:佐藤藤三郎と金一治の日記』(金一治共著、たいまつ社、1970年) 『底流からの証言:日本を考える』(筑摩書房、1970年) 『村からの視角:狸森から物情騒然の都会を望む』(ダイヤモンド社、1973年) 『中国を歩き日本を考える』(筑摩書房、1974年) 『下からの創造論:新しい生きがいの探求』(小林茂・森本哲郎共著、昌平社、1974年)

藤崎 (藤崎町)

豊田、中真那板、中村井、梨ノ木、西浅田、西岡本、西竹原、西豊田、西村井、西若松、二本柳、根子橋、東村井、東若松、樋口、松野木、真那板、真那板縁、南竹原、南豊田、南真那板、向根子橋、村井、村岡、村元、横松、若前、若松 平川 岩木川 浅瀬石川 弘前大学農学部藤崎農場 藤崎町立藤崎小学校 藤崎町立藤崎中学校

須藤

須藤(すとう/すどう) 地名 栃木県芳賀郡茂木町 神奈川県小田原市 日本人の姓。以下で詳説する。 須藤(すとう/すどう)は、日本人の姓の一つ。現在は発祥地となった栃木県や神奈川県などに多く分布する。由来としては那須の藤原氏本人またはそれを支持する人等諸説がある。 また、首藤・周東などのすとう・すどう姓もある。

後藤

後藤氏を参照。頭文字が濁点で始まる日本人の名字としては国内最多である。 地名 京都市上京区後藤町 鳥取県米子市上後藤 など他多数 後藤駅 - 鳥取県米子市にある西日本旅客鉄道(JR西日本)境線の駅。 紳士服のゴトー - 静岡県沼津市に本社がある紳士服メーカー。 後藤組 - 暴力団の一つ 「後藤」で始まるページの一覧