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藤原敦家

白河朝から堀河朝初頭にかけて、加賀守・備前守・近江守・伊予守と地方官を歴任する。この間の寛治元年(1087年)六条殿被仰勧賞により正四位上に至る。寛治4年(1090年)7月13日に金峰山で頓死。最終官位は伊予守正四位上。享年58。 「管絃得名楽道之名匠」と評され、神楽・朗

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藤原敦宗

天永2年(1111年)9月16日卒去。享年70。最終官位は式部権大輔大学頭丹波守正四位下。卒去にあたって、権中納言・藤原宗忠から「才智頗勝傍輩、可謂名儒歟」と評された。 また、漢詩人としても活躍。『本朝無題詩』『本朝続文粋』などに作品が収められている。 時期不詳:文章生 延久2年(1070年)

藤原敦忠

藤原 敦忠(ふじわら の あつただ)は、平安時代前期から中期にかけての公卿・歌人。藤原北家、左大臣・藤原時平の三男。官位は従三位・権中納言。三十六歌仙の一人。小倉百人一首では権中納言敦忠。 醍醐朝後期の延喜21年(921年)従五位下に叙爵し、延喜23年(923年)侍従に任ぜられる。醍醐朝末の延長6

藤原敦頼

『千載和歌集』(20首)以下の勅撰和歌集に41首が入集している。 出家の身ではあったが、歌道に志が深く、たいへん執着していた。七、八十歳の老年になってまでも「私にどうぞ秀歌を詠ませてください」と祈るために、歌神として信仰されていた大坂の住吉大社までわざわざ徒歩で、毎月参詣していたという。実際の歌会のときも、とくに講師の席の近く

藤原敦光

『古今著聞集』(黒板勝美校訂、岩波文庫、1940年) 『古事談』(小林保治校注、現代思潮新社、2006年) 藤岡作太郎『国文学全史』・4(講談社学術文庫、1977年) 中川徳之助「詩・酒・仏」(『国文学攷』15、1956年) 大曾根章介「院政期の一鴻儒 -藤原敦光の生涯-」(『国語と国文学』第54巻の8、1977年)

藤原家成

を建立し、死後はそこに葬られた。また子孫は羽林家の一つ四条家・山科家として繁栄した。 父である藤原家保は白河法皇の側近であったが、家成は鳥羽法皇の引立てを受けてその白河法皇側近の排除に協力した結果、嫡流としての地位を得た。家成は失脚した父の権益を継承したのに対し、長兄の顕保は家成に昇進を妨害されて

藤原定家

新古今和歌集:後鳥羽院親撰。定家は院の助手たちの中心だった。 新勅撰和歌集:定家単独撰の勅撰集、仮名序も定家。政治的な配慮で後鳥羽院、順徳院の歌が除かれている。 拾遺愚草 拾遺愚草員外 定家卿百番自歌合 定家卿独吟詩歌 秀歌大体:後堀河院に進献。

藤原兼家

兼家は東三条大入道殿と呼ばれて尊重された。 室の1人には『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母がいる。 童殿上の後、天暦2年(948年)に従五位下に叙され、翌天暦3年(949年)には昇殿を許された。義兄の村上天皇の時代には左京大夫に春宮亮を兼ねた。

藤原北家

兼家の四男 御堂流(嫡流)祖 藤原頼通 - 道長の長男 藤原師実 - 頼通の三男 花山院流祖 藤原師通 - 師実の長男 藤原忠実 - 師通の長男 藤原忠通 - 忠実の長男 近衛基実 - 忠通の長男 近衛家の祖 九条兼実 - 忠通の三男 九条家の祖 藤原永手 - 房前の次男 藤原真夏 - 内麻呂の長男 日野流祖 藤原長良

藤原為家

を行い、伯父・西園寺公経の猶子となる。若い頃は蹴鞠に熱中し、その縁で同好の順徳天皇に目を掛けられるようになった。ところが承久3年(1221年)の承久の乱の戦後処理で順徳院が佐渡に配流されると、その供奉者の一人として院から同行を希望された為家は掌を返すようにこれを

藤原南家

藤原南家(ふじわら なんけ)とは、奈良時代の藤原不比等の長男である藤原武智麻呂に始まる藤原氏の一流。「南家」の称は、武智麻呂の邸宅が弟房前の邸宅に対し南に位置したことに由来する。子孫は、朝廷内では房前を祖とする藤原北家に押されて振るわなかったが、為憲流藤原南家の工藤氏・伊東氏・二階堂氏・泉田氏・相良氏など武家の名族を数多く輩出した。

藤原宗家

3年(1179年)に権大納言に任ぜられる。文治5年(1189年)内府(九条良通)の法事に参会、祈年穀奉幣の上卿を務めるなど、活動をしていたが閏4月に腹病のために薨去。享年51。出家したともいわれる。 父より神楽・和琴の秘伝を継ぎ、松木家(中御門家)を楽道の家として発展させる基礎を築いた。 ※以下、『公卿補任』の記載に従う。

藤原隆家

藤原 隆家(ふじわら の たかいえ)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白内大臣・藤原道隆の四男(高階貴子を母とする兄弟では次男)。官位は正二位・中納言。 一条朝初頭の永祚元年(989年)11歳で元服して従五位下に叙爵し、翌永祚2年(990年)正月に侍従に任官する。同年7月に右兵衛権佐に任ぜら

藤原四家

藤原四家(ふじわらしけ)は、藤原不比等の四人の息子が興した藤原氏の四つの家の総称である。近年では藤原氏四家(ふじわらししけ)ともいう。 藤原南家 - 藤原武智麻呂(680年 - 737年) 藤原北家 - 藤原房前(681年 - 737年) 藤原式家 - 藤原宇合(694年 - 737年) 藤原京家

藤原顕家

建保3年(1215年)8月16日:出家。年63。 父:藤原重家 母:藤原家成の娘 妻:源師兼の娘・院女房新大夫局 男子:藤原知家(1182-1258) 妻:不詳(生母不明) 男子:藤原清家 次男:藤原顕氏(1207-1274) 男子:藤原重継 男子:尊家 ^ または14日。 ^ 『山丞記』建久元年6月19日条

藤原家明

藤原 家明(ふじわら の いえあきら/いえあき)は、平安時代後期の公卿。藤原北家末茂流、中納言・藤原家成の次男。官位は従三位・非参議。西四条と号す。 長承3年(1134年)主殿権助に任ぜられる。保延元年(1135年)従五位下に叙爵。保延3年(1137年)越後守。保延4年(1138年)左兵衛佐を務める。

藤原式家

子である種継は長岡京造営の事業を一任されるなどした。 百川の子で桓武天皇の義弟(姉の旅子は天皇の女御)でもあった緒嗣もわずか29歳で参議に昇進すると、長岡京の後に建設された平安京造宮と蝦夷征伐の中止を進言し、平城朝においては観察使制度の設置等政治改革に積極的に取り組み、嵯峨朝を経て旅子

藤原京家

それでも平安時代前半には、藤原貞敏(琵琶)・藤原冬緒(儒学)・藤原興風(和歌)・藤原忠房(和歌、舞楽)など、文化・芸術面で多くの人材を輩出した。その中でも特に冬緒は長命だったこともあり累進して大納言に至った。また、桓武天皇の後宮に仕えた藤原河子が天皇との間に儲けた仲野親王は宇多天皇

藤原家宗

応天門の変においては、応天門放火の嫌疑により左大臣・源信の邸宅を囲んだ遣使に対して、清和天皇の勅令を受けて左中弁として参議兼右大弁・大江音人とともに慰諭を行い、源信の嫌疑を晴らしている。貞観13年(871年)には参議に任ぜられ公卿に列した。 清和朝後半は議政官として左右大弁を兼帯し、貞観17年(87

藤原俊家

の承暦4年(1080年)に右大臣に昇る。没時正二位・右大臣。 声がよくとおり、歌を詠いあげるのがうまかったといわれ、その声に誘われて多政方という舞の名人と阿吽の呼吸で舞い踊ったことが『古今著聞集』(橘成季の作)に記録されている。 能楽の「佐保山」の由来は、藤原俊家の